←漢嬰先生と少年時代のわたしども。
ぎぎぎ・・・(←成功者への嫉妬で作文者が歯噛みする音)。あのころが懐かしいわい・・・。
さて。
前漢の時代、儒教が国家の正統的な学問に取り立てられて行ったわけでございますが、その儒教の経典の一つ、「詩経」につきましては、当時、四つの学派があったというのでございます。
@ 魯学派
A 斉学派
B 韓学派
C 毛学派
前漢の時代には、@〜Bが公式な学問と認定され、学官に建てられたのであった。(これを「三家詩」といいます。)
このうち、Bの学派は、文帝のときの韓嬰という学者に始まるとされ、この韓嬰は、
作内外伝数万言。
内・外伝、数万言を作れり。
内伝と外伝、あわせて数万字に上る詩経の解説書を書いた。
そうなのでございます(漢書・儒林伝)。
このうち、彼の整理した「詩経」のテキストへの注釈であったであろう「内伝」は十二世紀、北宋・南宋のころに佚してしまったらしい。
しかし、「詩経」の一節・一句を取り上げて、これに関連する古語や伝説を付した、いわば「参考書」である「外伝」は今に現存しておりまして、これを「韓学派の詩経の外伝」ということで「韓詩外伝」と称します。(ただし、漢書では六巻とされているのに、隋以降現代までは十巻となっているので、漢〜隋の間になんらかの修改がなされているのだと考えられている。) (以上、「韓詩外伝集釈」1979中華書局・「出版説明」を参照した)
※なお、「詩経」の本文は、はじめに学官に立てられた@〜Bの学派のテキストでなく、Cの毛派のものが、毛氏の注を付した「詩毛伝」として遺されました。これには後漢の大学者・鄭玄の解説・批判メモである「鄭箋」が付いており、これが「詩経」の基本文献となっておるのでございます。したがいまして、「韓詩外伝」の方には、ときどき、今に伝えられる「詩経」と違った詩句が出てきたりするのでございます。
「詩経」をめぐる現在までの学問史はめんどくさいし難しいので抜きにして、ここでは、「韓詩外伝」で紹介されている「説話」(ほかの古典に載っているものが多い)を「おはなし」としてお読みいただければと思い、いくつかを整理いたしました・・・が、「はあ?」「だから何なの?」というようなことなのでしょうなあ・・・。
「非常之変」(巻二)(「説苑」所引)
桀為酒池(巻二・二十二章)
畏天之威(巻三・二章)
三苗一秀@ 三苗一秀A(巻五・十二章)
為人下之道(巻七)
孔子鼓瑟(巻七・二十六章)
荘公廻車(巻八)
風樹之嘆(巻九・三章)
景公縦酒@ 景公縦酒A(巻九・八章)
「曾子曰入食」(巻九・二十五章)
扁鵲過侯(巻十・九章)
斉景公遊牛山(巻十・十一章)
「進退惟谷」(巻十・二十四章)
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