平成21年 8月17日(月)  目次へ  前回に戻る

←「御風而行」

韓嬰先生の講話の続き。

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原憲子貢を見上げながら言うた。

「子貢どのよ・・・、この憲はこう学んでおりますぞ。

無財之謂貧、学而不能行之謂病。憲貧也、非病也。

財無きをこれ貧と謂い、学びて行うあたわざる、これを病と謂う、と。憲は貧なり、病にあらざるなり。

「財産が無いのは「貧乏」といい、教えを受けていながら行うことができない、これを「なやみくるしむ」というのだ。」

と。

だとすれば、この憲は「貧乏」ではあるが、「なやみくるし」んではおらぬ」

さらに続けて言う、

若夫希世而行、比周而友、学以為人、教以為己、仁義之匿、車馬之飾、衣裘之麗、憲不忍為之也。

もしかの希世して行い、比周して友し、学以て人の為にし、教以て己の為にし、仁義これ匿(かく)し、車馬これを飾り、衣裘これを麗にするは憲これを為すに忍びざるなり。

世間に受け入れられようと期待し、誰にでも気に入られるように友だち付き合いをし、学問を(自分の得心のためにするのでなく)他人に認められるためにし、教育を(教え子の理解のためでなく、謝礼や名声などの)自分の利益のために行い、仁と義との孔門の中心倫理を隠してしまっておいて、自分の馬車と引き馬を飾り立て、自分の服を上着を綺麗にする。

そのようなことは、この憲には「せよ」と言われてもすることはできぬことじゃ。

これは子貢への批判である。

子貢逡巡、面有慙色、不辞而去。

子貢逡巡し、面に慙色ありて、辞せずして去れり。

子貢はその場でうろうろと後じさりし、その顔には恥ずかしそうな色が表れ、ついに別れの言葉も無しにきびすを返して去って行ってしまったのであった。

原憲はその後姿を見送りもせず、

徐歩曳杖歌商頌而反。

徐歩して杖を曳いて「商頌」を歌いて反(かえ)る。

ゆっくりと杖を引きずりながら歩き、(詩経の中に伝承される)「商(←滅んだ殷王国のこと)のくにの頌歌(ほめうた)」を歌いながら家に帰っていった。

その心の伸びやかであるがためであろう、

声満於天地、如出金石。

声は天地に満ちて、金石より出だすが如し。

その歌う声は朗々と天地に満ち満ちて広がり、金属や石製の楽器を打ち鳴らすかのようであった。

魯の国都のすみずみまで聞こえわたったという。

――――韓嬰先生曰く、

このようなひとは、自由で誇り高く、

天子不得而臣也、諸侯不得而友也。

天子得て臣とするを得ず、諸侯得て友とするを得ざるなり。

天の子であるただ一人の王さまも臣下にすることができず、諸侯は朋友として対等の付き合いをすることもできぬ。

というやつじゃ。また、

養身者忘家、養志者忘身。

身を養うものは家を忘れ、志を養う者は身を忘る。

身体を大切にするひとは家政など忘れてしまい、精神を大切にするひとは身体など忘れてしまうものだ。

ともいう。さすれば、原憲のようなひとは、

身且不愛、孰能忝之。

身すら愛(お)しまず、いずれかよくこれを忝せんや。

「愛」は「惜しむ」、「忝」(テン)はテキストによっては「累」となっているそうで、「影響を及ぼす」ぐらいの意味。

自分の身体でさえ惜しまないのだ、何事を心に懸けることがあろうか。

このようなひとこそ、詩経・邶風「柏舟」にいうところの、

我心匪石、不可転也。我心匪席、不可巻也。

我が心は石に匪(あら)ず、転ずべからざるなり。我が心は席に匪(あら)ず、巻くべからざるなり。

わしの心は石ころではないからな。おまえさんが転がそうとしても転がらぬ。

わしの心はむしろではないからな。おまえさんが巻き取ろうとしても巻かれることはない。

「・・・という志の堅いひとであろう。おまえたちも、儒学の経典である詩経を勉強して、このような偉大な先輩を見習って人格形成をせねばならんぞ。」

以上。

韓嬰先生のお言葉に、わたしたちは

「あいー! わかっておりまちゅー!」

と返事だけは立派にしたものであった。

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「韓詩外伝」巻一・第九章より。

原憲ファソのひとは「よし!」と大喜びして歓声を上げることでしょう。・・・が、残念ながらこれは「寓話」であり、実話ではありますまい。学識、人望、組織力いずれにもすぐれ、孔子の死後、弟子を代表した形で心喪三年に服し、その後の原始儒教教団の中心になったと考えられる端木賜・子貢(その学派は主として斉に広まったらしい)に批判的な(魯の儒教教団あたりの)グループが、清貧で名高かった原憲を材料にして作った「つくりばなし」であると思われる。

ちなみに、「我が心は石にあらず」は高橋先生の小説の題名で有名で、こういう比喩はわかりやすいから(愚かな・欺かれやすい)心には「すとん」と落ちるので、わたくしも若いころは「権力や権威に負けるのは人としていけないことなのだ」と思っていたのである。しかしながら、最近は、心は石であり、席であるのだ、転がり、巻かれるのが常態なのであって、石でなかったりむしろでなかたっりするのは、そちらの方が変なのであり、心が転がらない、巻き取れない、ということが起こったら、なんらかの異常、特にいわゆるマインドコントロールを受けている可能性を疑うべきなのではないか、とさえ思うているのである。

ちなみに、詩経毛伝の注にいう、

石雖堅、尚可転。席雖平、尚可巻。

石は堅しといえどもなお転ずべし。席は平らなりといえどもなお巻くべし。

石は堅い。それでもまだ転がすことができるのである。ムシロは平ぺったい。それでもまだ巻き取ることができるのである。

すなわち、石や席まで行っているだけでも実は狂狷のごときもの、大したニンゲンなのだ、ということである。石やムシロほどの者が、この末世にどれほどいるのであろうか。

 

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