←「御風而行」
「みんなが知っているお話で恐縮じゃがなあ」
と韓嬰先生が講じはじめた。
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孔子の死後、数年したころ。
弟子のひとりで廉直で有名であった原憲は孔子教団の中心地であった郷里の魯の国で、
・土を固めた壁がむき出しの一部屋だけの家で、
・ライ麦の藁を敷物にし、
・部屋への入り口には蓆を懸けて扉替わりにし、
・壁に甕の底を抜いたものをはめこんで窓にし、
・扉の軸には桑の木を使って
・上からは雨水が漏れ、下からは湿気がじめじめと上がってくる
という暮らしをていた。
ぴんと来るひともいるでしょうが、これは貧乏な暮らしである。真似をしてみてください。
その中で彼は、
匡坐而絃歌。
匡坐して絃歌す。
正座して絃楽器を鳴らしながら歌を歌う。
という生活をしていたのであった。
同門の子貢が斉の国から帰って来て、原憲に会いに
乗肥馬、衣軽裘、中紺而表素、軒車不容巷而往見之。
肥馬に乗じ、軽裘を衣、中は紺にして表は素、軒車、巷に容れずして往きてこれを見る。
ぶりぶりと肥った馬に乗って、軽やかな皮衣を着、その下には内側に染めた服、表側に白い服を着て(すなわち下着を豪華にしていたのである)やってきたのである。
彼は馬車に乗っていたのだが、大きな車が狭い小路に入り込むことができなかったので、騎馬して小路の中に入り込んできた。
原憲は
「ああ、彼は我が朋友である」
と声に出して、家から表に出て路上で出迎えた。
その姿を見るに、
楮冠藜杖。
楮冠し藜杖す。
楮の冠をかぶり、藜の杖をついていた。
これはかっこ悪い貧乏ないでたちである。そして、
・その冠を正そうとすればあごヒモが切れてしまった。
・襟を広げようとして腕を広げたら、袖が破れてしまった。
・履きものを履いて踏み出したら踵のところが裂け、はだしになってしまっていた。
さらにカッコ悪くなった。
子貢はその原憲の姿を見て、驚いたように
嘻、先生何病也。
嘻(ああ)、先生、何ぞ病(なや)めるや。
「嘻」(キ)は「ああ」という詠嘆の間投詞で、別に「喜」んでいるときでなくても使います。
「おお、原憲先生よ、なんとなやみくるしんでおられることか」
すると、原憲は、
「は?」
とはじめ何と言われたか解しなかったようで、
「なんと言うたのだ?」
と問うから、子貢は
「おお、原憲先生よ、なんとなやみくるしんでおられることか」
と繰り返して言うてやると、原憲、馬上の子貢を振り仰いで、言うに
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今日はここまで。「韓詩外伝」巻一・第九章より。