「東遊記」より。
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奥州・南部領、宮古近辺の海浜に、ある晩風雨が激しかった。
翌朝、砂浜に
人の足ばかり長さ五六尺ばかりなるが、肉はただれながら指もいまだ全うしたるが流れ上がり居たり。
日本尺ですから、五六尺は1.5〜2メートル弱になります。
どうしてこんなに大きな足がありうるのであろうか、と、そのころそのあたりでは大騒ぎで、ちょうど奥羽を旅していたわたし(橘南渓)と同行者の養軒も聞き、驚いたものであった。
また、南半田村というのにはいつごろ流れ着いたものか大きな骨があり、このほかあちこちの村里の氏神などに祭られる神体は格別に大きな骨があるという。さらに、
古塚などを開きたるに、大なる頭骨を掘り出せしこと、奥州辺にては多く聞けり。
西国や北国(越後・越中など)ではそんなものを聞いたことがない。奥州ではこのような骨を、頼朝の頭だとか田原又太郎というものの頭だ、というているのであるが、つらつら思い考えるに、むかしの人であっても今の人と違うわけではないのだから、名高いひとであってもそれほど大きいはずはないのである。
わたくしが今、阿蘭陀版の「万国図」を開いてかんがうるに、
日本の東の方数千万里の外に、巴大温(はだいうん)といふ国あり。・・・過ぎし年、阿蘭陀人諸国をめぐりしついで彼国に至り、水を取らんが為に陸にあがり見るに、砂原に足跡あり。
その足跡を見るに数尺もあった、ために怖れて逃げかえってきた、ということである。
また、その国に漂流したひとで生きて帰ってきたひとはない、という記述もある。
ということは、
必ず日本の東方に当りて大人国ありて、其国の人は身の丈二三丈にも及びたることと聞こゆ。
そのように考えれば、西国北国になくて奥州の東海辺にだけ大骨が寄り来ることが理解できるのである。
いずれにせよ
近き年は、段々に、阿蘭陀万国を乗り廻りて、諸蛮夷の国々に通路ひらけたれば、つひには大人国も知らるべきにや。
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というのは、「余が奥州に遊びし頃」とあるので、天明五六年のころ(東北地方を襲った天明の大飢饉に関わるおそろしい話も同時代人として記録している)だということですから、1785年ごろのことである。この巴大温は「パタゴニア」の音訳ともいう。
一方、今、わたしの手元には、英国人レミュエル・ガリヴァ氏の著「航海記」があるが、この貴重な書にも、1703年6月16日に、North Americaの西岸に「BROBDINGNAG」国を発見したが、その国のひとは一歩が「十ヤード」あった・・・旨の記録がある。(中野好夫訳新潮文庫所収版p95〜96)
これらを考え合わせるに、18世紀ごろに我が国東方に大人国があったことは確かなのだが、その大人国とはいまだ通路が開けないとは西洋文明の限界というべきであろうか、それともペルー沖地震などで海中に沈んでしまったのであろうか。