平成25年12月2日(月)  目次へ  前回に戻る

 

立ちくらみがひどいんですわ。健康問題にそろそろ火がついてきたか。

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春秋の時代、斉の景公(在位前547〜前490)が牛山に遊んだときのこと、北の方に広がる自らの国を見はるかして曰く、

美哉国乎。鬱鬱蓁蓁。使古而無死者、則寡人将去此而何之。

美なるかな、国や。鬱鬱蓁蓁たり。古(いにし)えより死者無からしむればすなわち寡人まさにここを去りていずくにか之(ゆ)かん。

「美しいのう、この国は。花は咲きにおい木々は茂る。太古より人間に死ぬというサダメが無かったら、わしはこの美しい国からどこにも行かず、ずっとここに暮らしているであろうに」

そして、俯いて

「ううう・・・」

と泣いた。

泣下沾襟。

泣き下りて襟を沾おす。

泣いた涙が流れて、衣服の襟をしとどに濡らした。

という。

これに応じてお側にあった史孔、梁丘據の二人が言うた、

然。臣頼君之賜、疏食悪肉可得而食也、駑馬柴車可得而乗也、且猶不欲死、而況君乎。

然り。臣は君の賜に頼り、疏食悪肉も得て食らうべきなり、駑馬柴車も得て乗るべきなり、かつなお死するを欲せず、しかればいわんや君をや。

「まったくにござりまする。わたくしども臣下は御主君からの賜りもので暮らす身分、どんな粗末な食べ物、悪い肉でもいただければ食べる、能力の悪い馬、柴の粗末な車でも、乗せていただけるなら乗る、そういうレベルでございましても、なおすら死ぬのはイヤなのでございます。君主であればどれほど死ぬのがイヤなことでございましょうか」

そう言って、

「ううう・・・」

又俯而泣。

又、俯きて泣く。

彼らもまた俯いて泣いた。

のだそうでございます。

ああ、かなしきかな。

すると、これを聞いていた賢者の晏嬰が大笑いした。

「わっはっはっは、わっはっは」

そして言う、

楽哉、今日嬰之游也。

楽しきかな、今日の嬰の游や。

「何と楽しいのであろうか、今日のわたくし晏嬰の行楽は。

なんと申しましても、この目で

見怯君一而諛臣二。

怯君一にして諛臣二を見るなり。

勇気の無い君主をおひとりと、阿諛追従する臣下を二人、見たのでございますからな。

いやあ、これはおもしろい」

景公と二人の臣下は涙を拭って晏嬰をぎろりと睨んだ。しかし、晏嬰はそれを気に止めるふうもなく、言うた。

使古而無死者、則太公至今猶存。吾君方今将被蓑笠而立乎畎畝之中、惟農事之恤。何暇念死乎。

古えより死者無からしむれば、すなわち太公今に至るもなお存す。吾が君、方今まさに蓑笠を被りて畎畝の中に立ち、これ農の事をこれ恤れまん。何ぞ死を念(おも)うの暇あらんや。

「もしも太古より人間に死ぬというサダメがございませんでしたなら、この斉国の始祖・太公望呂尚さまがいまだに生きておいででございましょう。そうすれば、その子孫の子孫である吾が君は、国を継ぐなど思いもよらず、今ごろ蓑や笠を身に着けて田畑の真ん中に立ち、農業にいそしんでおられることでございましょう。忙しくて死のことなど考えている余裕も無いぐらいではございますまいかなあ」

「畎畝」(けんぽ)というときの「畎」は田畑中の低くなった溝の部分、「畝」はタネを播く高くなった部分をいう。

景公はこれを聞いて大いに反省し、

挙觴自罰、因罰二臣。

觴を挙げて自ら罰し、よりて二臣を罰す。

自ら罰杯(罰ゲームとして飲むお酒)を仰ぎ、また(史孔、梁丘據の)二人にも飲ませたのであった。

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「列子」力命篇より(「韓詩外伝」巻十にも収む)。

晏嬰は彼より少し先輩の同じ斉の管仲、彼より後の鄭の子産に並ぶ春秋時代の大賢者です。賢者だから許されるのかも知れんが、ふつうの人がこんな「ほんとうのこと」を言って君主や同輩を悲しませたら、いけませんね。怒られますよ。

いずれにせよ、いにしえより死者無からしむることあたわず、わしもいろいろ考えねばならぬ年頃である。

 

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