フィールドワーク録21−2 (起:令和2年3月14日(土)) 目次へ 令和2年1月2日〜へ
神々は常に彼方から来るものだ。
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3月14日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
朝からみぞれのような氷雨で、お昼ごろからホントに雪になってしまった。観タマもできないので、武蔵嵐山に行ってみました。
〇月輪古墳群 ・・・ 百以上の古墳があったという名高い終末期群集古墳ですが、昭和50年代の宅地造成で約60が開発のために発掘調査され、あとは滅失して、現在は古墳公園に遺った二基のみ。
手前側と向こう側にあるんですが、これらもほとんど削平されていますね。
〇弁天池 ・・・ いつのころからあったのかわからない、と書いてありましたが、古くからの農業用のため池であったようです。
桶のようなコンクリの台座に「弁天池」と書かれた碑石があり、右端の黒いのは昭和改修の時の村長さんの由来記。大東亜戦争で農業増産が必要になって、昭和三十年代に改修したんだそうです
〇鬼鎮神社 ・・・ 「きじん」神社と読みます。祭神はちゃんとおられるんですが、「鬼を祀る神社」とされていて、全国に四例しかないとかかんとか。毎年節分のときには「福は内、鬼は内、悪魔外」と呼ばわってマメを撒く、と言っていつも報道される。治承年間、畠山重忠の創建という。
この向こう側を鎌倉街道が通っている交通の要所で、もとは畠山氏の菅谷館のウシトラ鎮護であったよし。
金棒が奉納されていた。
嵐山町は、戦国期山城の最高傑作といわれる杉山城、畠山重忠の菅谷館(及び県立史跡博物館)、木曽義仲産湯、義仲のおやじの帯刀先生・義賢の墓など、中世マニアにはたまらん遺跡や古墳もまだあるのだが、マニアでもないし寒いので今日はここまでにして引き上げました。(続きは20日へ)
3月15日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
暖かいので、深谷へ行ってみました。
深谷駅。渋沢栄一像もありました。「大河なんとか」にするんだそうですが、ヒロインたくさん作れていいね!
〇滝の宮神社 ・・・ 深谷宿の鎮守。深谷城址から移された御嶽神社などもあります。
忠霊塔もあります。市民公園になっていたみたいです。
〇清心寺 ・・・ 源平合戦で活躍した岡谷六弥太が創建。
境内の忠度墓。六弥太は平忠度を討ち取って、その墓をここに建てたのである。なお、「名将言行録」の岡谷信実のお墓もあります。ネコもいる。
〇深谷宿 ・・・ あんまり本陣には貴人が泊まらなかったんだそうです。飯島家の記録では一年間に宿泊10回、休憩40回とのこと。本陣職はもうからなくてたいへんだったそうです。
常夜灯。上の方に「三」のマークが入っており、これは富士信仰の人たちが立てた証拠だそうです。
常夜灯の前に「呑龍和尚」を祀るお堂がありました。そこにあった呑龍さまの画像。こんなひとだったんですね。なお、呑龍さまをお祀りするのを「御分身」というようです。先週まで全く知らないひとだったのに、顔までわかるようになった。
〇深谷城址 ・・・ 中世上杉氏の居城で、17世紀はじめまでは松平氏が入っていたそうですが、その後廃城になる。現在「城址公園」になっているのも一部で、かなり広かったみたいです。
この浅間神社のあたりは外濠が遺る。「みかんの花咲く丘」作詞の地の碑がありました。「笛吹童子」や「怪傑ハリマオ」も同じ人が作ったんだそうです。
〇ひのみ塚古墳 ・・・ 持っている案内書の写真では後方部みたいなのもあったのに・・・。かなり小さくなっています。
右手の建物は集会所。半鐘があったので、昔はここに「火の見」があったのでしょう。その左手が「ひのみ塚古墳」。上に小さな祠があって、天手長男命(あめのてながおのみこと)が祀られていました。なお、案内書では近くにあったはずの古墳は、新しい家になっていた。
〇楡山神社 ・・・ 式内社。イザナミ女神を祀る。
左手に入らずの森があり、祭神の塚と伝えられて、入るとタタリにあうそうです。なお、この鳥居のあたりにご神木のニレの木(樹齢600年)があったそうですが、枯れてしまったようです。
〇木の本古墳群 ・・・ もとは十八塚といわれていたそうですが、現在は12号墳まで遺る。1,2,3,7,8,9,10,11,12は確認できました。
これは1号墳。
3号墳の近くにある「木の本塁」。中世城郭の跡であろうという。このあたりは律令制下の播羅(はら)郡衙の地と推定される。
〇東方城址 ・・・ 「ひがしかた」と読みます。ここも17世紀まで使われていました。
この土手を昇ると土塁らしきものが続き、ずっと歩いていくと保育所に出ます。誰もいないけど、ヒツジが一匹飼われていました。驚かしちゃってごめんね。
すごい距離歩いて、式内社+古墳+中世城郭セットを達成。この後、深谷名物カレー焼きそばを食い、腹ハレツ。明日会社に行かないことにします。うっしっしー!
3月20日(金)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
春分の日です。もともとプロ野球開幕予定日であったが、貧乏で開幕戦買えないので、イースタンリーグを観に行こう、と思っていたんですが、そのイースタンリーグも練習試合となり、唯一試合が盗み観れる戸田の試合も今日は中止になってしまい、やることないので、東武東上線で武蔵嵐山へ行って、中世大調査だ。
〇稲荷山古墳 ・・・ もとの墳形はわからないぐらい変形しているそうですが、石室が古くから開口。
石室で中世の死体が発見されているらしいんです。盗掘に失敗して生き埋めになったやつなのか、他の理由で入り込んだやつがいたのか・・・。
〇菅谷城(菅谷館)跡 ・・・ 「日本続百名城」に選ばれている現在の城址は戦国末の城郭らしいんですが、12世紀には畠山重忠の居館が、おそらくこの城の本郭の一画にあったのであろう、とされています。県立の資料館があるがもちろん休み中。二か所にあるトイレまで締め切っていたのはアタマ来た。
本郭跡。
畠山重忠公銅像。夜中にここに来たらコワそうである。右側に「百字顕彰碑」があるんですが、撰者の名前を削滅してあった。昭和初めのものなので、おそらく進駐軍を恐れたのであろうか。
〇嵐山溪谷 ・・・ なんと、「京都の嵐山に似ている」と言い出したのは、帝大教授・本多静六先生だったんです。武蔵嵐山(あらしやま)ならまだわかるが「ランザン」。東武が大正・昭和に行楽地として売り出したのだが、そのころから「市民」は自然をも消費していく・・・。
見渡せば、花ももみじもなかりけり。の風情じゃった。なお、この奥に平成になって建てられた与謝野晶子歌碑があるんですが、東武さんに頼まれてお見えになったんでしょうけど、晶子さんの各地の観光地に立つ歌碑の歌は、ああこれが明星の、これが鳳晶子の、あの豊穣の歌が商業化されていった成れの果てか、と悲しくなってくるものばかりで、ここのも一読忘れてしまったが、そうであった。
〇べったら地蔵尊 ・・・ 正面から見れば豊満な笑顔だが、横から見ればべったら、というお地蔵様。
この覆屋の中にあるんですが、ほんとにそうなんで、現地で見てください。
〇鎌形八幡社 ・・・ 坂上田村麻呂が宇佐八幡を勧請した、という伝説があるそうです。12世紀の「御正体」(懸け仏)が遺る。しかし発願者が源義仲の息子・義高と刻まれているが、その年号の年にはまだ義高は生まれていないとは・・・。
たいへん幽邃な雰囲気の神社です。昭和41年9月台風で大被害を受けて再興したとのこと。
〇班溪寺 ・・・ 曹洞宗。義仲生誕の地とされる。ここで二歳になったとき、おやじの帯刀先生・義賢が悪源太義平にぶっ殺され、義仲は畠山重忠のおやじや齋藤別当実盛によって木曾に匿われたのである。
裏手に木曾義仲顕彰碑もあります。
〇大蔵神社・大蔵城跡 ・・・ 源義賢の居館であったといわれるが、それより後の13〜14世紀に最大期を迎えているようである。東側を鎌倉街道が通る。
土塁が遺る。
〇縁切橋 ・・・ これも坂上田村麻呂なんです。田村麻呂が病気になったというので、京都から奥方が看病に来てくれたんですが、「大命を受けて陣中にある夫を訪ねるとはなにごとか!」と怒った田村麻呂、奥方を離縁してここから追い返した、というのである。今も地元では、新婚夫婦を渡らせない、と解説板に書いてありました。鎌倉街道笛吹峠道です。現在の橋はすごく小さい橋で、みなさんがっかりされるといけないので、写真は載せません。縁切りたいひとは行ってみてください。
〇大行院 ・・・ 実に不思議な宗教的空間である。赤い唇のみほとけたちが、たくさんおられる。八時半の男・宮田征男の墓碑も・・・。
聖なる地なのでカメラ・動画撮影禁止なので、外からの写真だけ撮りましたが、すごいところである。
〇源義賢墓 ・・・ 関係のひとが作ったのだろうといわれる古式の五輪塔。
一番上の空輪を欠く。
〇学校橋・ヘビ坂 ・・・ 槻川を渡る。
学校橋北側の坂に立つ蛇坂の水神塔。槻川の筏師たちが祀ったものという。
学校橋上から、大平山・塩山方面を望む。菜の花畑に入日薄れゆく時刻だ。(このあと東上線は事故のため途中で川越でJRに乗り換えるなど疲れました。腹減った。)
3月22日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
深谷で天然温泉美肌の湯に入って、ついでに先週見落としたもの見ていく。
〇国済寺 ・・・ 奥州管領・上杉憲顕の庁鼻輪(こはなわ)館の一画に作られた禅寺である。
深谷上杉家のお墓もあります。
〇木の本古墳群5号墳。4と6以外は確認できました。
よく遺っていますね。
3月29日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自粛中。東京雪降って寒かった。名残雪ではなく本格的であった。
近所のサクラ。幻覚
ついに自粛終わり。
5月31日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ついに自粛終わったんで、秩父の鉱泉で一泊してました。ああ食った食った。
〇大慈寺 ・・・ 秩父10番。横瀬にあります。
この建物は平賀源内の原案によるそうです。
そこから、正丸峠を越えて、飯能の名栗へ。
〇白雲山鳥居観音 ・・・ 大東亜戦争をはさみ三十年を掛けて、開祖・平沼桐江が鳥居山に多くの仏像を遺した。仏像を所蔵する鳥居文庫などは今日まで休みなんですが、山には200円で登れます(車道は今日まで中止なので、歩いて40分コース)。
本堂。なんとなくワクワクする建築である。ステンドグラスみたいな壁画がまたインド風ですばらしいんです。
20分ぐらい登ったところにある玄奘三蔵塔。昭和17年日本軍が南京郊外で玄奘の墓を掘り出し、その遺骨の一部が日本にもたらされた。昭和35年にこれを納める場として作られた塔で、一層は日本様式、二層はチャイナ風、三層はインド風に造られている。右は玄奘三蔵像。なお、この塔を作ったもののシナ風の門を作らなかったので、平沼師は武州鉄道事件に巻き込まれて昭和41年まで裁判していたそうです。昭和41年に無罪、勲三等ももらい、昭和42年に山腹に玉華門が作られたという。
玄奘三蔵塔から見た、右が観音三尊像、左は蔵経塔。
このインド風のが蔵経塔。一万数千冊を納めるという。
観音三尊像。すばらしいです。平沼師の造形能力には頭が下がる。ほんとは像内まで昇れるようなんですが、今日まで閉館中。
ほかにも、恩重堂、平和観音、鐘楼などあり。鳥居文庫にはまた来てかっこいい仏像の数々を見たいものです。
〇佐藤塚 ・・・ 青梅・成木から青梅市内に向かう途中の三差路にあり。
17世紀初め、石灰を用いた木炭製造をはじめたひとの供養塚らしい。北条被官の落ち武者とのこと。
〇奥多摩湖
最後は何かを求めてここまで行ってきました。30年前に当時の仲間と来て、それから30年、いろいろありましたが・・・。
帰りにへそまんじゅう食ってへそのお観音にお参りして、帰ってきました。また明日から平日か・・・。
6月7日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
県境越えはまだ自粛中らしい・・・。ばれたらマズい。
〇「第十一代斎藤用之助の足跡から 激動の明治大正の沖縄」展を観に行ってきました。どこで見たかは言えません。11代斎藤用之助は佐賀氏族、明治十二年、鍋島直彬知事時代に沖縄に渡り、巡査を振り出しに、地方官吏として活躍、那覇・島尻郡長を長く務め、「ひーじゃー郡長」と慕われた。離任のとき、東風平小学校に見送りのひとが1万人つめかけた、という。白下砂糖の産業化をはじめ多くの治績があるが、特に硫黄鳥島噴火に際して、全島民を久米島に避難させ、そのまま移住させてしかも久米島住民側も大歓迎したという事務能力、根回し、説得力は「神さま」といわれたそうです。時期的には奈良原県政や謝花昇の弾圧時代に当たるのですが、そこらへんはほとんど触れられていませんでした。言論弾圧とかなんとか今になって騒ぐ前に、こうやってマジメにシゴトしていた人たちがちゃんといたんです。
斎藤は辞任後佐賀に戻り、今は佐賀に第十四代がいるそうです。佐賀の方で発掘されて、沖縄の資料と一緒にして展示となった。
なお、斎藤用之助の初代のおやじと初代と二代は、三代にわたって主君の追い腹を切った(殉死した)というので佐賀ではたいへん尊敬される家系なんだそうです。「葉隠」的に「カッコいい」ぜ。
6月13日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今週はむちゃくちゃでした。来週もかな・・・。それはさておき、まだ県境移動は自粛中だというので、県境を越えないようにしようとしたのだが・・・。
〇狐原遺跡 ・・・ 平安時代の住居跡らしいのです。「山」字焼き印が出土して、ウマなどの飼育か木材の交易をしていたことが明らからしいです。
このあたり一帯のようです。遠く雨にけむる石楯尾の嶺が見える。
〇紅梅神社 ・・・ 幽邃な相模川河畔にありました。
ご神体は石のようです。
〇隠れの宮 ・・・ 室町・中先代の乱のとき、敗れた諏訪一族がカマクラから逃げてきて隠れたところだと言い伝えられる。
この水たまりみたいなところの左右に隠れていたのだろうか。
道ばたにあった小俣さんの頌徳碑を読んでいたら、ここは上野原市で、高尾の続きで東京都内と思ってたら山梨県だったと判明! はやく戻らねば。
〇石楯尾神社 ・・・ 式内社。論社あり。相模川沿いにいくつか石楯尾を名乗る神社があります。ここは宮司さんの努力で、内務省神社局が認定した、というのでかなり有力らしいんですが。毎月満月の朝に祀りがあるようです。
建物・文書類は北条=武田の「三増合戦」の際に焼けたといい、さらに江戸期にも二度焼けたとのことで、現在のは文化年間のものらしいが、甲州街道に近いからでしょうか、なかなか豪華である。
拝殿にはこんなカッコいい透かし彫りが。
神社裏の幽邃な社叢。中央右の「二本杉」は市の天然記念物。ここはどこの市であろうか・・・。
ここは相模原市の市域だそうです。なんと神奈川県に入り込んでしまいました。はやく戻らねば!
6月14日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平日への不安と恐怖がわしを調査行に駆り立てるのだ。今日は伊勢原の駅から愛甲石田まで。え? ここ神奈川県? 町田の隣のつもりだったのに! はやく戻らないと見つかってしまう!
〇丸山城址 ・・・ 鎌倉期の糟屋氏の館といわれるが、室町後期の土塁・堀も発見され、上杉定正の上杉館の可能性が大。太田道灌をお風呂の中でコロしちゃったところです。
東名高速と国道246号に挟まれた地にあります。室町期の城址域はもっと広いらしいんですが、公園内に二か所の土塁が確認できます。奥左の木立は一号土塁。
〇高部屋神社 ・・・ 丸山城址の一部となっていた模様。246をはさんだ向かい側にあり。延喜式内。祭神は住吉三神で、いまも神職・氏子は大磯海岸まで毎年潮汲み神事に出かけるより。
歪んでいるようにみえますが、道が左から右へ下っているからです。道のあたりは濠だったはず。境内に昭和8年の「最後の雨乞い神事」のときの写真があった。ここから(当時あった)神池まで行って神事を行ったところ、九日後に雨が降ったという。
現在の拝殿は慶應元年(1865)、江戸の匠の作という。この社額はなんと山岡鉄舟。欄間には浦島太郎と竜宮の透かし彫り(海の神さまだから、とのこと)、しめなわには大磯のホンダワラがぶらさげられていた。
〇太田道灌墓地 ・・・ もう一か所あり、こちら(下糟屋)が首塚、上糟屋のが胴塚とのこと。
愛すべき小さな五輪塔がいくつか並ぶ。近くに太田家の菩提寺・大慈寺あり。太田道灌の画像を保有する。
〇千秋山普済寺・石造多宝塔 ・・・ もともと高部屋神社の神宮寺にあったものを、廃仏毀釈後、地元民が惜しんで普済寺に移したものという。
なんと、この多宝塔は、1802年、幕命により蝦夷に渡って国泰寺という寺を造った和尚が、帰ってきて記念に建てたものなんですが、「松前諸士庶人七百人」から寄附をもらったので、その名前と金額、この700人が属した6か所の地名が刻まれている。地名のところまで読み切れませんが、その中に、クナシリやエトロフも出てくるんです!
民族の血がたかまって、興奮してくる!
〇小金神社古墳 ・・・ 四世紀前半の円墳。畿内式の朝顔形ハニワが多数出た。ここから東に愛甲石田駅前のあたりまで、弥生・古墳・平安の遺跡多数ありという。いにしえの「石田荘」の地だそうです。
これを昇ります。このあたりは、高部屋神社もそうでしたが、神社に鐘楼がある。
〇石田城比定地 ・・・ 中世、石田氏の居城あとといわれる一帯。この水神さまのあたりに「とぼり」(外濠)「こくくら」(穀蔵)などの地名もありという。
向こうの高台のあたりが「本丸」に比定されます。水神様は小さな池ですが、石像が祀られ、七月にお祭りがあるよし。
〇愛甲大塚古墳 ・・・ 四世紀の前方後円墳で、崖の上にあるのでどこかの川から見えるように作られていたのだと思われます。上の小金神社古墳から数代の首長墳がたどれるよし。
こちら側が駐車場で少し削平されていますが、立入禁止。向こう側が崖になっててその向こうが人家で、どうやっても入れませんでした。
本日は古墳+式内社+中世城郭のセットを達成しました。
6月21日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇沼影の観音堂 ・・・ 武蔵浦和で所用の後、街中にある観音堂にお参りする。1605年に記録されているという古いお寺で、鎌倉時代の木彫り正観世音が祀られている。裏のお墓はほとんど同じ苗字。古い宝篋印塔を中心にゲンダイのお墓まで先祖代々が区画の中におられる家が、いくつもあった。
坂東足立観音十二番です。近所のこどもたちが遊んでいる。
中央が観音堂。左手の小さなお堂の前に立っているのはイヌマキで、これも江戸時代のものだそうで、さいたま市天然記念物。
6月28日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前日車検に預けてあった車を引きとり、そのまま相模原のサウナで一泊し、今日は雨の相模原から雨上がりの愛川町方面へ。
〇照手公園 ・・・ 照手姫さまは相模原・横山の姥沢のご出身との説があり、照手姫遺跡の碑がある。なお、小栗は藤沢あたりのやつがモデルだそうです。
雨でぬれた森が荘厳であった。
〇当麻山無量光寺 ・・・ 一遍上人のご修行された地である。明治はじめからは時宗大本山となったが、明治26年の大火により多くの堂宇を失う。
室町期の高麗門である。
もと本堂であった場所に、一遍上人の像が立っています。
このほか、家康の先祖の徳阿弥の髪塚もあります。徳阿弥たち世良田一族は、中先代の乱に敗れて逃れることあたわず、アジールであった時宗寺院に逃げ込んで出家したという。
〇谷原古墳群 ・・・ 7世紀の群集古墳。1・2・4号墳が貯水池内に保存され、12〜14号墳が向原遺跡地に一部復元されている。鉄剣とか出た。
〇田名向原遺跡 ・・・ 約二万年前の住居跡。黒曜石加工の作業場か。資料館のハテナ館があります。
泥沼ではありません。このあちこちから黒曜石の加工品が出ました。
〇当麻東原古墳 ・・・ これも7世紀の円墳。鉄剣出た。谷原もこちらも、相模川から見上げることのできる場に造られた「見せる」古墳であろう。
周溝部に浮かんでいる、のではなく、公園が水浸しになっているんです。碑のところまでなかなか行けない。発掘により人骨と鉄剣等が出るまでは「馬塚」と呼ばれていたそうです。
〇三増(みませ)合戦跡地 ・・・ 何十年も来ようと思っていた三増にやっときました。1569年、武田・北条の主力が戦い、我が国史上初の山岳戦、世界戦史にも稀な撤退途上での敵主力撃破の戦例だとか迂回戦術の好見本であるとか、実は武田はそんなに勝ってない、とかいろいろ言われますが、そのうちゲーム化して整理します。とりあえずは武田の陣取りのすばらしさがわかりました。(6.29岡本全勝氏の校閲により一部修正した)
これは合戦地の碑。碑の後背側(北側)の山に信玄の本陣があり、このあたりで両軍が対峙。北条側優勢であったが、左手(西)側より山県隊が迂回し、側背部より北条軍を攻撃したため、北条先鋒は総崩れになった、という(ただし「甲陽軍鑑」による)。
この陣立て図だけでも三日ぐらい戦史上の講釈ができそうです。三つの沢の流れる台地での会戦状況が東西に横切る県道を通ることでよくわかりました。補給線の長さも行軍行動もすべて北条側が優れ、武田側にはさらに背後の津久井城に北条側(結局動かなかったが)がいるという布陣上の不利がありながら、終わってみれば不利な側が勝っていた、という戦史上の「関ケ原問題」がここでも起こっています。
なお、三増自体は当時北条直轄領の相模甲州街道の宿場町です。今もお寺などたくさんある田舎のでかい町。
〇宮ケ瀬ダム ・・・ ケーブルカーで登れるらしいんですが、現在休業中。
このあたりに名勝・石小屋などが沈んでいます。
〇愛川町郷土資料館 ・・・ 獅子舞や中近世資料充実。八菅から丹沢、大山の修験道関係資料もすばらしい。写真撮るなというので撮りませんでしたが、じっくり学びたいことが多いです。
各地の郷土資料館が見学できるようになってきたのでうれしい限りであるが、やきうの無観客と同じで「ビデオやジオラマ操作するな」となっていて、まだまだ本格的には稼働していない。
これは撮っていいと書いてあったので撮りました。エントランスにあったアケボノゾウの骨格である。
当麻東原古墳あたりから相模川、向こう岸の大山・丹沢を望む。右手後方の八菅(はすげ)の役行者ゆかりの修行場からはじまって、大山までが丹沢修験道の回峰修行場である。
7月5日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
またコロナ増えてきてます。今日は秩父の横瀬へ。
〇寺坂棚田 ・・・ 中世以来の伝統を持つ棚田である。
夕べはここでホタル見た。
〇今市の石塔 ・・・ 中世以来の伝統を持つ市のあったところです。
白山ヒメ神社。
〇横瀬町歴史民俗資料館 ・・・ 石器や古銭や秩父観音めぐりの地図や幻灯機や人形芝居の回り舞台など見るべきもの多し。
中の写真は届けないといけないので撮ってないことにします。秩父の幻燈芝居や人形芝居は農家の座敷などで演じることが多く、手作りで小振りなんです。商業化されない手作りの味があるのはいいですね。
〇武甲御嶽神社里宮 ・・・ 欄間画がすばらしいそうです。
拝殿の神像もおもしろい。下に神輿が保存されていますが、昭和初期に担いだのが最後だそうですが、その意匠、工芸見るべきところの多いものだそうです(そう書いてありました)。
里宮のすぐ向かいにある秩父絹織り発祥の地・城沢井。この裏の根小屋城主が後北条の意を受けて絹織物を始めたんだそうです。
〇武甲御嶽神社一の鳥居 ・・・ 今回はここまででガマン。
ここまでくる途中のセメント工場がかっこよかった。資本主義の荒々しさはおれたちの心を奮い立たせてくれる。
こんなのが溪谷にどかどか土足で建っているのだ。かっこいい。
「それでは、達者でのう」肝冷斎は、都会に戻るわれらと別れて、この森の彼方に消えて行った・・・。
7月11日(土)〜12日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
所用のため訪れた足利にて。
〇織姫神社 ・・・ 創建は18世紀だそうです。拝殿は昭和12年の名作。
縁結びの神様だそうです。
〇八雲神社 ・・・ 源義国創建、1050年前だそうです。旧郷社。
〇機神山山頂古墳群 ・・・ 織姫神社の裏山にある古墳群
山頂古墳。前方後円墳です。登れません。
行基平山古墳。これも前方後円墳です。登れません。あと24ぐらいあるみたいです。
〇両崖山城 ・・・ 機神山をさらに奥に行くと一時間程度で到着。11世紀、藤姓足利氏(秀郷の子孫)が築城。16世紀には足利長尾氏の居城として難攻不落であったが、小田原陥落後廃城に。ちなみに「両崖山」は「要害山」の転化という。
本郭跡の御嶽神社。御嶽系の碑がたくさんありました。
途中の登山道から関東平野を見る。なお、この登山道を五時間ぐらい歩くと名草の巨石群に到着します。もう30年ぐらい前に訪れた懐かしの地であるが、今回は所用があるのでそこまでは行けません。
〇雪輪陣屋跡 ・・・ 近世足利は戸田氏1万1千石の領で、陣屋が置かれていた。陣屋あとの天満宮。
特に陣屋あとの遺構は無いようです。
〇鑁阿寺 ・・・ 源姓足利氏の菩提寺。もと中世の足利館跡として国指定史跡でもある。
天然記念物の夫婦銀杏の向こうに重要文化財の本殿を見る。すばらしいです。
〇足利学校 ・・・ 復元された。JAF会員なので370円で入れました。
これは外から茅葺建造物を見ました。ちょうど「梅雨前線」が向こう側に通り過ぎて、空はターコイズブルー。
7月18日(土)〜19日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
移動制限はかかってないから、マボロシとしてかたづける必要はないのかな。
〇豊見城
・豊見瀬御嶽 ・・・ 豊見城跡にあり。
拝殿の右手に並ぶあちこちの「おとおし」が興味をひく。
・豊見城跡 ・・・ 裏手には旧陸軍病院壕があります。粛然たる思いを持たざるを得ない。
・山下第二洞穴遺跡 ・・・ 旧石器時代の人骨が出ました。
8歳ぐらいの女の子の大腿骨だそうです。さっそく?みらいちゃんという8歳の少女が遺跡のイメージキャラになっていました。
〇水釜
・兼久のビジュル ・・・ もとのビジュルさまは戦争で破壊され、その場所は米軍施設によって陸地と切り離されてしまったので、1955年に「かねくのたんめ」「かねくのうめー」「どうぶつ」という三つの石を新たに安置して、陸地から行けるところに再開された。
これはウブガーだと思います。中央右手あたりに三石を祀る祠があります。正面から写すのも失礼な気もするのでこのアングルで。
↑のビジュルの裏手側の海辺に出ると、中央左手の島がおそらくもとのビジュル祠があったところだと思われます。左手の方に米軍のマリーナがあって、それを築くときに陸地との連絡ができなくなったという。
・水釜の洞(がま) ・・・ 水釜の地名のもとともなった海岸べりの泉。
やんばる船の飲料水にもなったのであろう。
・渡具知の河口 ・・・ 近世・近代に北部のやんばる船はここから比謝川を遡行し、嘉手納に荷をあげた。そのような交通の要所であったので、嘉手納には遊郭が発達し、軽便鉄道が牽かれたのである。
向こう側は読谷。貝塚とかもあります。
・北山按司の祖先墓 ・・・ 北山按司が今帰仁を追われ、渡具知に逃げてきたときに、先祖の遺骨も持ってきた。それを祀った場所という。
・野国総管宮 ・・・ 野国総管は17世紀初頭にチャイナからサツマイモを持ち帰って栽培させた沖縄農業の大先覚者である。墓は米軍施設内になってしまっているらしい。昭和年間に神社を創って祀っています。
ほんとに現実として扱っていいのかな。
7月24日(金)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
栃木県小山市での所用を果たすついでに茨城県筑西市下館地域を視察調査す。
〇しもだて美術館 ・・・ 板谷波山、森田茂ら出身の芸術家の作品を納める。
企画展・安斉肇「えとえのえほん展」というのをやってました。これは拾いものをした。
羽黒神社。下館には一時期城主だった黒田氏が勧請した羽黒神社が7社あり、「七羽黒」というてすべてにおまいりすると・・・別にすごいことにはならないようです。七羽黒全部廻る結婚式があるようです。
〇板谷波山記念館 ・・・ 30年前来たかと思ったがまったく記憶がないので、下館に来たのは初めてなのであろう。
板谷波山生家。ほかに東京・田端にあった炉が移されています。名前メモしてこなかったのでもう忘れてしまいましたが、五十年一緒に働いた助手のひとがいたことを知りました。成型はすべて彼の仕事だったということです。また、波山の「ガールフレンドへの伝言もたのまれ・・・」とか書いてあったけど、「愛人」とちゃんと書いてほしい。波山は下館の有力者の子弟で陸軍士官学校に行こうとして健康診断で落ちて芸術学校に行ったひとなので、エリートなんです。
〇下館城本丸跡 ・・・ 下館城は藤原秀郷からはじまり、上館・中館とセットで中世を生き抜いてきた城郭です。近世は下館藩(最後は水谷氏)の城となった。
幕末天誅組四天王の一人、とか、尊徳仕法を導入するために尊徳と信頼関係を築いた衣笠さまなどの顕彰碑もあり。
〇加波山事件烈士の墓 ・・・ 加波山事件で亡くなったひとの墓碑である。
このほか、二十三夜地蔵などもあり。
〇船玉古墳 ・・・ 七世紀の方墳である。
右手の方の柵に囲まれた石室に装飾壁画があるので有名になりました。
〇台畑古墳 ・・・ 五世紀、小貝川流域に遺る国造家の古墳とみられる前方後円墳。
前方部から後円部を見上げる。全長75メートルである。なお、この流域でいちばんでかい135メートルの葦間山古墳にも行こうと思ったが、今回は断念してここまでとなった。次回はいつになるであろうか。→意外と早かった
7月26日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇ほんとは25日も予定していた所用のため、25日に土浦へ。レンコンの天ぷら食う。
・色川三郎兵衛銅像 ・・・ 土浦港にあり。千葉出身の醤油醸造業者で、第二回、第三回衆議院議員。土浦の治水と港の整備に多大な功績があったという。
色川大吉さんや色川武大さんとも親戚になるそうです。
〇26日は阿見町を調査。
・予科練平和記念館、雄翔館 ・・・ 平和記念館は町がやっているようです。雄翔館は自衛隊敷地内にあり、予科練OBたちがおかねを出し合ったようです。
記念館内のゼロ戦(復元)。
雄翔館。右側の銅像は元副校長の山本五十六元帥。予科練は出来てから10数期しか卒業生をだしていないのでいちばん出世したひとが中佐(二階級特進による)だそうです。海軍兵学校卒者と違って現場に出ているので、戦死率が高い。神風、回天、桜花、伏龍など特攻隊の中枢は彼らであった。遺書類を読んでしまうと、彼らが国家との関係で抱えた問題に比べて、今わたしが組織との関係で抱えている問題などどうでもいいことに思えてくる。もうどうでもいいや。
・阿見神社 ・・・ 延喜式内社です。
竹来(たかく)にある阿見神社。社叢がすばらしい。
中郷にある阿見神社。こちらは社叢はありません。境内に霞ヶ浦神社(予科練の殉職者を祀る)が移されていますが、廃絶神社の扱いとのこと。
〇美浦村へ。
・黒坂命古墳 ・・・ 常陸国風土記によると東国征伐に尽力して亡くなった黒坂命を葬った場所という。
頂部に厳島さま等が祀られています。円墳。中期古墳というので五世紀ごろのものか。
墳頂から霞ヶ浦を望む。おそらく霞ヶ浦を行き来する舟から見える場所に造ったものであろう。
・陸平(おかだいら)貝塚 ・・・ 明治12年に、東京帝大の日本人学生だけで発掘した、ということで「日本考古学の原点」ともいわれる国内最大級の縄文期貝塚だそうです。
ぶくぶく水という縄文期以来の泉もあるんですが、マムシが出るのとイノシシ罠が仕掛けられているので立入禁止。
〇牛久小坂城 ・・・ 中世初期から存在が確認されるそうですが、中世末期には、佐竹と北条の最前線として注目され、佐竹側の攻撃をはねのけたそうです。
一の曲輪〜四の曲輪までが実によく遺っており、土塁、空堀、土橋、櫓台あとがはっきり確認できて、すばらしい。空堀が折れ曲がって複雑なかっこうになっていて、ナワバリファン(←マニアではない)としては心躍ります。曲輪外に城下町が発達しかけていたそうです。
8月2日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
高崎に行くつもりで藤岡に泊まったが、高崎に行く気力体力に欠けたので、藤岡を調査して、南関東へ。城郭の写真類は明日以降(PCの調子悪くなってきたのでさらに明日以降)。
〇平井城 ・・・ 関東管領・上杉憲実の居城。いわゆる越後上杉家が関東管領を継いでから五代、ここを関東の根拠地とした。特に、下記の「詰城」は、その後、北条氏康と上杉謙信が互いに陥落させるなど中世史を飾る名城である。
本丸跡。この土塁上に建物跡があった。
「平井城址公園」という墓場横の狭い空間に、多くの碑と乳母地蔵などがあり。「貞享の乱の歌」「平井城の歌」という歌詞が刻まれた石碑があった。
少し歩いたところに空堀や曲輪あとが整備された一画があります。土地の利用協定などがうまくいってないんでしょう。左手の木立の向こうが鮎川に向けて断崖絶壁となっており、ここも相当難攻である。
〇平井詰城(金山城) ・・・ 平井城の詰め城ということで、憲実公も登られたことがあるよしだが、とにかく急峻である。駐車場のある方でなく裏手(猪口)から登る方が楽であった(肝冷斎は偶然そうなった)。
駐車場から沢登りをしてきて、ここから左へやっと普通の道か、と思うとほとんど崖みたいなところを登る。(肝冷斎は下った)
ここはまだ「道」になっていますが、もう少し進むとほんとの崖。
崖を上がると物見台がある。周囲は石垣になっており、先の方から藤岡の町が見下ろせ、平井城に攻めて来る敵の状況を見ることができたという(今は木立でほとんど見えません)。中世城郭における「天守閣機能」を持つ施設である。
物見台から尾根道(帯曲輪)を通ってやっと本丸に出る。
本丸跡には、木立があって見えませんが、四方の支城の名前とそこまでの距離が看板に書かれていて、上杉管領の守備の縦深さを思い知る。
本丸の周囲には当時の技法である巨石積石垣が遺る。「日本ピラミッド」に似ているので、「日本ピラミッド」ももしからしたら山城址かも。
本丸から少し降りたところにある井戸曲輪の「井戸」。井戸というよりも「貯水槽」というべきものであるとのこと。なお、中世期にはこちら側が大手門で、大手門とその守備施設の機能を持っていた自然巨岩「櫃岩」の遺跡がこの先にあるそうですが、ゴルフ場内で「見学できません」と書いてあったので見ないできました。アップダウンがきつそうなので行くのは難しそう。
裏口(猪口)側にはこんな階段を下りる。(肝冷斎は登ったわけですが。この程度で「きつい」と思っていた自分が、あとで下りの時には情けなくなりました。)
〇藤岡歴史館 ・・・ 無料。縄文〜古墳時代の出土物、養蚕の高山社関係、堀越二郎関係の展示あり。
藤岡歴史館の外観。
堀越の東京帝大航空科の同窓生との記念写真だそうです。小石川植物園で撮ったという。若くして死んだやつもいるそうですが、みんな楽しそうやなあ。
縄文土器の数々。
〇上野白石古墳群 ・・・ 5世紀から6世紀にかけて、鮎川沿いに作られた古墳群。国指定史跡4、県指定史跡3があります。
・白石稲荷山古墳(国) ・・・ 5世紀前半の前方後円墳。かなりでかい。後円部頂に昭和10年に建てられた石碑あり。
後円部。背景に秩父の山なみが広がり、美しい景色です。
頂上の「稲荷山古墳の記」。昭和10年建立。なお、「稲荷社遺址」の碑もあり、稲荷山と呼ばれていたのは社があったからなんです。
・舟型石棺(県) ・・・ お寺に置かれています。
6世紀初ごろのもので、明治期に滅失した古墳のものだそうです。
・七輿山古墳(国) ・・・ 6世紀前半の前方後円墳。周溝もあり、すばらしい遺存状態。お寺の塔が立っていたみたいです。今も如来像や羅漢像が遺るが、おくびが・・・。
後円部。このあたりはもと大きな寺があり、お墓が多い。
後円部頂にある如来像。おくびが・・・。
後円部にある羅漢さまたち。おくびが・・・。廃仏毀釈でやられたのかと思ったのですが、おくびの遺っておられる羅漢もあるので、単に脆くなって落ちただけかと思います。
・伊勢塚古墳(県) ・・・ 古墳群の中で最後、6世紀末ごろか。不正八角形古墳。横穴石室が開口。
円墳とされていたそうですが、測量により不正八角墳という珍しいものであることが明らかに。
石室の中から外覗く。夏場は石室は涼しくて居心地いいです。