フィールドワーク録21−1 (起:令和2年1月2日(木)) 目次へ 令和元年11月2日〜へ
日本で一番かっこいい!と思われる人形である。
1月2日(木)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
宮川下流から上流へ行ってみる。
〇磯神社、丁塚古墳
〇大河内城 ・・・ 三重県松阪市にあります。北畠氏と織田軍が闘った。50日間耐えて和議となった天下の名城である。
約40年振りに訪れたが、たいへん整備されていた。本丸跡地。
本丸と西の丸の間の「マムシ谷」。織田軍との激戦地で、羽柴秀吉生涯ただ一度の負傷をしたという場所である。
〇神倉遺跡 ・・・ 縄文遺跡。宮川上流は上から縄文、下から弥生の文化が広がってきている場所である。
1月3日(金)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
去年も行ったけど、今年も志摩磯部へ。
〇青峯寺、舟神さま
〇伊雑神社 ・・・ 延喜式内、志摩国一宮
〇磯部神社
〇佐美長神社・佐美長御前神社 ・・・ 延喜式内
佐美長神社ははじめて来ました。ツルが稲の穂を落としたところで、その穂からできた稲はすばらしいものとなったという。伊雑神社に対する「外宮」に該当する神社である。
〇おうむ岩 ・・・ ついにどのように聞こえるか確認できた。
おうむ岩の上から青峯、伊雑神社、伊雑の浦方面を望む。
〇恵利原の天岩戸 ・・・ 内宮の裏山に当たる山の中腹にあります。もとは「水穴」と呼ばれていたらしい。環境庁が昭和60年に選んだ「日本百名水」の一。
「水穴」=「天岩戸」(幕の下に見えます)の前に、真珠王・御木本幸吉が地元の青年たちとともに手ずから植えたという楠。注意書きには「生水飲むな」と書いてありますが、たくさん飲んだ。うまかった。
天岩戸に向かう通路にある「足形跡遺跡」。なんの足跡なのか、どこが足跡なのか、など不思議なことばかり。
1月5日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もうダメだー、明日からついに・・・ 今日もあがくようにフィールドワークへ。
〇出雲伊波比神社(埼玉県毛呂町) ・・・ 延喜式内社(論社あり)。日本武尊が東国平定の後、お祀りになられた、というのだが・・・。
晴れやかな日曜日、初詣客がそこそこいます。かなり立派な神社である。南隣は百済王族の高麗神社。おそらく出雲族にここに移されて開墾に従事したものたちがいて、その祀ったものなのであろう。近くに古墳がないので、本拠地は別にあったのカモ。
本殿は重要文化財(元国宝)。なんと16世紀前半の建造である。この地における信仰の古さと篤さがわかろうというものじゃ。
11月に行われる流鏑馬神事で有名であるが、もう980年以上続いているというので、もうすぐ1000年である。
JR毛呂駅近くのみそぎ池。日本武尊がみそぎしたという伝説があるそうです。
ああ水の中に光の国があるのかも知れんので行ってしまいたいーーーー!!!!!
1月11日(土)・12日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1月13日(月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
休みだったので、朝霞市へ。
〇朝霞市博物館 ・・・ 朝霞はゴルフ場が出来たときに名誉総裁の朝香宮さまにちなんでつけた名前で、もとは川越街道・膝折宿が中心になった宿場の町で、新河岸川を中心にした水運の町で、さらに近代は軍需工場や米軍基地や、伸銅(銅線を作る)産業の町であった。
伸銅工場の様子。江戸時代からやってたんです。
〇青円寺 ・・・ 去年もお邪魔しています。大正から昭和初めにかけては東武東上線沿線の「岡不動」として信仰を集めたそうです。
〇岡城址 ・・・ 太田道灌または資康築城とされる平山城。連郭式のナワバリがはっきり遺る。縄文時代遺跡でもある。
黒目川沿岸のいわゆる舌状台地にあり、立地とナワバリは見事である。
〇峡(はけ)山古墳 ・・・ 前方後円墳の後円部だけ遺っているというので見に行ってみましたが、発掘作業がはじまっているみたいなので、間もなく開発されてしまうのでしょう。
もとは古墳群を形成していたらしいんですが、現在の唯一の残りがこのブルーシートの下の後円部です。どうなってしまうのかなー?
1月18日(土)・・・・・・・・・・・
今回の出奔はさらに一段と補陀落を目指したものであった。
〇金武観音寺 ・・・ 沖縄金武町にあります。16世紀、補陀落を求めて南に漕ぎ出した熊野の日秀和尚がおきなわに到着。携えてきた熊野権現三神とともに金武の地に神仏習合寺院を建立。ほとけさまのお顔がきれいなので修復用の寄付一口してしまう。首里城にはしません。
琉球八社の一つ(「権現社」ですからね)です。今の建物は王府時代のものではなく、戦前のもの。とはいえ数少ない現存沖縄古建築物である。はじめて来たわけではありません。
境内の日秀洞の中から入口を見上げてみる。「権現社」は、ここに祀られています。十六羅漢図、金竜銀龍、菩薩昇天、大仏花蓋などの不思議な鍾乳石もあります。この洞に入ったのははじめてです。門前の酒屋さんといろいろ揉めた?のが解決したようですが・・・。
以前にも来た金武グスク公園、トムスス御嶽、今回初めてオランダ森公園なるところに行って、第六代行政長官であった松岡政保の銅像を見た。松岡は少年時代にアメリカに渡って苦学、電気工学士となって大正時代に帰国、砂糖工場長などを経て、戦後琉球政府の産業振興畑を歩み、民政長官となって、佐藤栄作総理の訪沖を実現した。
トムスズ御嶽の頂上部。イベ(至聖所)は少し下にあるガマのところのようです。
松岡政保像。ゲンダイ沖縄では正当に評価されていないひとの一人である。
〇宜野座村立博物館 ・・・ 書道三人展をやっていました。ただの留守番のばばあだと思って話をしていたら作者のうちのおばあ二人だったみたいで失礼しました。
遺跡、民俗、葬法関係の展示が充実。なにより、昭和20年6月〜21年にかけての難民収容所についての展示は、このことをあまりよく知らなかったので勉強になりました。米軍の病院で毎日何十人もが栄養失調で死んでいき、そのひとたちを埋めた共同墓地が十年ぐらい前から発掘され、遺骨が出た。ほとんどのひとには遺品もなく、コーラ瓶の中に名前を書いた紙を詰めた「墓標」などと一緒に出てまいりました。
前回来たときは閉館していたんです。阪神タイガースキャンプ地の宜野座球場のすぐ裏。
かっこいい葬具の数々。赤いやつは死体を風葬場まで運ぶ龕。あとは洗骨後の骨を入れるツボとかそんなやつ。
〇惣慶宮 ・・・ うたきが改造されたもの。
祭神は波の上宮の熊野三所権現だそうです。
〇惣慶の獅子 ・・・ 恩納岳のケーシだそうです。
丸くなっていてネコみたいでおもしろいですね。
〇金武の大川(うっかー) ・・・ 泉。昭和天皇のご成婚(大正十三年)を記念して水汲、洗い場、村有浴場として作られたもの。平成初期に改装された。金武観音寺の鍾乳洞とこの大川が「新沖縄十景」に選ばれているそうです。
「生水のむな」と書いてあったので飲んでみました。美味かった。
〇シルフリの森 ・・・ 「シルフリ」は「頂(ちぢ)崩(ふ)れ」の転訛だそうで、天井が崩れた洞穴。そこに村墓(共同墓地)が作られていた。「以前は骨壺などが累々とあったが・・・」と書いてあったので「いまはないんだ」と思って行ったら、ありました。今も信仰しているひともおられるらしく、そこへずかずかと入ってしまったのである。
これがシルフリ森(むい)。中の写真も撮ったがアップは止めておきます・・・。
〇宜野座ヌ古島遺跡 ・・・ ぬるどんちになっていますが、ここはもと大川按司のグスクあとという。大川按司は北山に属し、遺物などから明との通交もあったようである。ここもずかずか入ってしまった。
これは「ぬるどんち」。この裏側に何もない広場的な場所があります。
〇漢那明記(みーけ)の村墓 ・・・ 海岸近くにある村墓です。入口は小石で閉じられている。
〇漢那のよりあげ森(ゆいあげもー) ・・・ 漢那の海岸から少し入ったあたりで、いかにも「閖上」地形である。1944年ごろまでは男子禁制の禁足地であったが、神社を作ることになってイベ石を動かしたところ、骨が出たそうです。現在は漢那宮となっています。
昭和19年に出征兵士を送るために神社にした、ということです。上記の「骨」は祠横の小祠に祀られているとのこと。
今回はここまで。
1月19日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本日は補陀落から追放され、また現世に戻ってきました。
〇浜離宮恩賜庭園 ・・・ 松平綱重(後の六代将軍・徳川家宣)さまが作ったんです。明治天皇とアメリカ国前大統領グラント氏との対面でも有名。
はじめて来たわけではありません。広いなあ。
〇パナソニック汐留美術館 ・・・ 「モダンデザインが結ぶ暮らしの夢展」を観に行ってきました。
ちょうどギャラリートークをしていたんで、ちょっと鼻につく感じ?(あくまで感じだけですよ)の解説聞かせてもらいました。勉強になりました。
1月25日(土)・・・・・・・・・・・
もうダメだー。おれは・・・。
〇とりあえず、国立公文書館の令和二年第一回企画展「お江戸初づくし」を見る。各地の正月風俗なども盛り込んでいるのですが、どうも「権力」を見せることができておらず、インタれスティングに欠ける気がします。
絵入り色付きの本もあってきれいである。
〇神保町でまた要らん本買う。チャイナの本はレートの関係もあって高いんです。できるだけ昔の古本を買うようにしてるんですが、新刊は非常にきびしー!
1月26日(日)・・・・・・・・・・・
昨年末の仕遺しを何とかしようとまた茨城へ来ました。
〇麻生陣屋 ・・・ 常陸麻生・新庄藩の居城である。摂津高津城主・新庄直頼は関ケ原で西軍に味方したんですが、後ゆるされて麻生に三万石を与えられ、五代目に後継がいなかったんですが、傍系から四代目に入って引退していた新庄直時が一万石を得て麻生藩を継ぎ(六代目)、以後、何度も財政危機に陥り、百姓に強訴とか一揆をされるんですが、すべて首謀者の処罰もせず(できず)、幕末に至って強硬な尊攘派となったが維新時には新政府について天狗党を討伐するなど、なんとか廃藩置県まで生き抜いた関東唯二の外様藩(もう一つは谷田部の細川藩)なんだそうです。陣屋跡は現在、麻生小学校となっている。陣屋跡に隣接して、家老・畑氏邸宅が「記念館」として遺されています。畑氏は新庄家とともに近江の出で浅井の被官であったそうですが、初代に招かれて、以後幕末まで250石どりで藩政に多く貢献したという。その邸宅は明治24年、新治郡出身の開業医・福田安次郎に買い取られ、後、福田の長男・保(杏林大学学長)、次男・花井忠(検事総長)がいずれも東京に出たため無住となり、麻生町に寄付されたのである。
麻生陣屋跡。
家老邸記念館。無料です。
〇麻生城 ・・・ こちらは中世城郭です。源平合戦で活躍した常陸大掾家が行方地方に割拠し、「行方四頭」と呼ばれたそうなんですが、その一派・麻生常陸大掾家の居城であった。天正年間(秀吉小田原攻めの直前)に滅亡。
土塁・空堀の遺構が遺る。
〇夜戸神社 ・・・ 行方にあり。風土記に出てくる夜刀(やと)神さまを祀っています。いにしえはこのあたりが人と神の境界であったのだ。
椎井池(しいいのいけ)。夜刀神がたくさん棲んでいたという。この左手登ったところに愛宕神社と夜戸神社あり。
〇主石神社(ぬしいし) ・・・ 鉾田にあり。式内社です。成長する石(生石)を祀ったものという。神体と思われる裏山は火災のためか木がすべて切り倒され、ユンボが三台ぐらい入ってはげ山にしていました。
主石神社拝殿。左手の方に山があるんですが、はげ山化させられている。
境内に敬神碑があったのだが、撰文者をよく見ると「水戸 栗田寛」とあり。水戸弘道館の生き残り(優秀なやつはほぼ全滅)、東京帝国大学史学科教授、何よりも「大日本史」の完成者としてあまりにも名高い。
なお、夜戸神社と主石神社の間に「日本唯一カッパを祀る」という手接(てつぎ)神社があったが見逃してしまう。
〇大洗磯前神社 ・・・ 式内大社です。文徳実録に曰く、二体の光る神が常陸の海辺にやってきて、石と化した。翌日、さらにその石が増えていた。すべて沙門(僧侶)のようであったが、目鼻は無かった、と。境内に海洋博物館あり。300円もするのですが、見るべきものとしてはクジラの生殖器など。
この彼方から光る神々が来たのだ。
海岸から昇る石段。
旧暦では昨日が正月ですから、初詣客多し。ガールズパンサー詣でのひともいるようです。なお、写真では写ってませんが、拝殿の向こうの正殿は茅葺で県指定文化財。
〇大洗維新と明治博物館 ・・・ 土佐出身、明治天皇の宮内大臣を務めた田中光顕の発案で、「功のみ多くして賞少ない」水戸にも何か維新の記念を作ろうということでできたという。
以下、無用のことながら(←司馬先生風に)、田中光顕は、司馬遼太郎先生に「典型的な二流志士」と評価されています。「典型的な二流〇〇」ってかっこいいですよね。おれたちが何とかたどりつける最高位、みたいな感じ。
〇大洗磯浜古墳群 ・・・ 四世紀、姫塚(方墳)→坊主山(前方後円)→日下ケ塚(常陸鏡塚)(前方後円)→車塚(巨大円墳)が海岸付近に世代を追って構築されている。いわゆる「海辺古墳」として注目されるもの。
・姫塚 ・・・ 駐車場みたいなところにぽこんとある。近くにネコが三匹飼われていました。
小さいかわいい古墳です。上からは西北方面がよく見える。この左に方にネコ小屋あり。
・坊主山 ・・・ これだけが「国指定」を受けていないのは、地主との関係であろうか・・・。
・日下ヶ塚(ひがつか)(常陸鏡塚) ・・・ 横からみるときれいな前方後円型なんですが、登ってみると後円部が壊れているのでバランスが崩れている。近くの水戸藩海防陣屋跡から見下ろすと、鹿島灘がよく見えました。
奥の茂みが日下ケ塚です。
陣屋跡≒日下ケ塚古墳から鹿島灘方面を見下ろす。真ん中あたりのは大洗のマリンタワー。古墳は築かれたころには葺石などでピカピカして、海からはるかに望めたはずである。
・車塚 ・・・ 全国屈指の巨大円墳。
左下の方のトビラがあいているので登ってしまった。
ああ、もう日が暮れる・・・。実際は電池切れで暗く映ってしまっただけですが。車塚の上から見ると、涸沼なども見え、古代の水運の要地であることがわかる。
2月2日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二月になりました。今日は埼玉県で鴻巣から吹上まで中山道沿いを歩きました。かなり疲れた。
〇伝源経基館跡 ・・・ 鴻巣駅から西に10分ほど歩いて、鴻巣高校の近くにあります。源経基は清和天皇の六番目の孫だかにあたるので、「六孫王」ともいいますが、その子孫から鎌倉・室町・江戸の将軍や義家・義経・義貞をはじめ優秀な用兵家を出した清和源氏の大元のひとで、武蔵に土着したが将門さまに焼きだされ、将門さま死後は伊予の純友さま征伐軍に入り、やがては文武両道のもののふとなられた(陽成源氏説もあるらしい)方です。その方の館跡と伝えられているのですが、土塁や空堀など現状の残り方がすばらしすぎるので、さすがに十世紀のものではないと思われます。なお、中世の遺物は出ているが建造年代は不明のよし。
石碑の文字は河野広中。
〇箕田(みだ)古墳群 ・・・ 箕田は嵯峨源氏・源仕(つかう。河原左大臣・源融の息子)の居所で、仕の息子が宛(みつる)、その子が綱(つな)。仕は経基の片腕となり、宛は今昔物語に出る平良文(将門さまの敵となったおじきの一人)との一騎打ちで名高い武士道の誉のひと、綱は摂津・渡辺で養われ、渡辺綱と名乗った頼光四天王の筆頭のひとであり、この地は全国渡辺姓の発生地とされます。
・9号墳(宮登古墳)・・・ 宮登神社の裏手にあります。ハニワがないので7世紀の円墳とのこと。
・8号墳
・7号墳
8号墳から7号墳(左の木立ち)を見る。
・6号墳
民家の畑に立っています。向こう側は道になっていて、変形が大きすぎるのでわからないそうですが、もとは前方後円墳だったとの言い伝えありとのこと。
・5号墳 ・・・ 浅間神社の「富士」になっています。
階段あがって右手に登ります。
・4号墳 ・・・ 民家の中にあるので近寄れません。
・2号墳 ・・・ 氷川神社になっています。
源仕の墓という伝説もあるそうですが、6世紀の古墳なのでフェイク。
1・3号墳は滅失。このほか記録にのこらない多数の6世紀〜7世紀古墳があった模様。
〇箕田館跡比定地 ・・・ 現在なんにもありません。箕田2号墳のあたりがそうだとのこと。
付近には、
・箕田観音 ・・・ 馬頭観音だそうですが、渡辺綱が立てたんだそうです。
この建物は近年のものだそうですが、建て直しのときに古いお堂から、平安時代のものと思われる一寸何分かの観音像が出たとのこと。
・宝持寺 ・・・ 渡辺綱が父祖の菩提のために建てた寺とのこと。
・氷川八幡神社 ・・・ 箕田源氏の建てた氷川神社と、経基系源氏の八幡神社とを明治初に合祀した。
〇中山道・箕田追分
〇三嶋神社古墳 ・・・ 三嶋神社の拝殿・本殿が後円部になっている長さ55メートルの前方後円墳。ここまでくると吹上で、行田の「さいたま古墳群」まで2〜3キロの地点。さいたいま古墳群のさいたま国造系列の後でこのあたりを代表したのがここの被葬者かも知れません。
拝殿から右手に前方部がきれいに遺って、そこに合祀された塞の神の石碑などが並べられています。
拝殿前のこの敷石は江戸時代に掘り出された石室の石だといわれます。
日があるフは暖かく、土着的な遺跡でオモシロかったなあ。歩き過ぎであちこち筋肉に来ているが、心地よく寝られそうである。明日が来なければ・・・。
2月9日(日)・・・・・・・・・・・
多摩方面に来ました。夜は寒いが、星が多く見えた。
〇あきる野
・秋川大塚古墳 ・・・ 昭和57年の調査では「方墳」かということだったそうですが、その後、埋葬施設が無く、周溝も無いことなどから「塚」ではないかとの説が出ているとのこと。
この形が古墳時代からあるならきれいに遺り過ぎている感じがします。
鳥居の真ん中あたり、山なみの上に富士山が頭を出している。おそらくこれは富士見塚・・・。
・雨武主(あめむしゅ)神社 ・・・ 秋川の地主神らしい。すばらしい環境である。
〇青梅
・青梅市郷土博物館 ・・・ 縄文土器などすばらしい。三田氏関係遺物や江戸期以降の文書など展示。付設の旧宮崎家住宅は19世紀初のものとのこと。古民家は保存のための囲炉裏の焚火の臭いがいいですね。
・虎柏(とらかしわ)神社 ・・・ 式内社(論社あり)。六孫王・源経基が諏訪神社を招来したという。高峯神社が元宮であろう。
すばらしい社叢の中にありました。
・勝沼城(師岡城) ・・・ 平将門の子孫を名乗った中世三田氏の居城だそうですが、天正年間北条氏に落とされ、師岡氏が入る。秀吉小田原攻めで落城。土塁、空堀、四つの曲輪のナワバリなど遺っていて、青梅を一望のもとに見下ろせる。
土塁がはっきり確認できます。
・青渭(あおい)神社 ・・・ 式内社(論社あり)。里宮と奥宮がありますが、奥宮はちょっと無理。
すごい山峡にあります。奥の宮はここから山を登るようです。
・青梅鉄道公園 ・・・ 昭和56年か57年に来てから、40年ぶりに来てみた。以前は新幹線が無かったなあ・・・。展示の96の廃車時期がわしの誕生日とほとんど同じなので、これらの汽車が走っていた今はもうない「父母の国」を思うて涙出る。
これは明治期にドイツから輸入されたB6型。フタコブラクダみたいでワクワクしますね。
・昭和レトロ商品博物館・青梅赤塚不二夫会館・昭和幻燈館 ・・・ 幻燈館はよかったですよ。
・住吉神社 ・・・ 青梅宿の守護。
2月22日(土)・23日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・
所用のため訪れたる高知の一部を調査。
〇朝倉神社 ・・・ 延喜式内。天智天皇の「朝倉や木の丸どの」という歌にうたわれた古い神社である。裏は神体山の赤鬼山。
このころひどい雨で、カサもなくずぶぬれ。ばばあに胡散臭そうに見られる。
この重要文化財の本殿は、こんなところに雨曝しでいいのかというぐらい美しいです。幕末、長州工匠の作という。
〇朝倉古墳 ・・・ 朝倉神社から赤鬼山の麓を500メートルばかり歩いたところにあり。7世紀の終末期古墳で、表土は円墳だったであろうと推定されるが今は失われている。
土佐三大古墳の一、といわれるそうです。「危険、中に入るな」と書かれていました。中に入ると変になるのかも。
〇朝倉城跡 ・・・ 16世紀前半、高知平野西部に盤踞した本山氏の居城であるが、長曾我部元親に迫られて、焼いて逃げたんだそうです。空堀、詰めの段などの遺構が遺る。
山中どろどろに濡れながら登って到達。
〇野中婉住居跡 ・・・ 野中兼山の娘が赦されて戻ってきて住んだところ。詳しくは大原冨枝「婉というおんな」参照のこと。
〇高知城博物館 ・・・ 山内家関係資料を展示。
このあと、宇和島・大洲に近い山間部の梼原(ゆすはら)へ。「最寄り駅:須崎」というので予約したのだが、ほんとに最寄りだというだけですごい遠かった。
〇布施が坂 ・・・ 須崎から津野や梼原に昇っていく峠道であるが、別名「辞職峠」といい、高知方面から異動辞令を受けた県の職員や教師が、ここまで来てあまりの険阻に引き返し、辞職願を提出することがしばしばであったからという。この先は豪雪のときにも自衛隊の車が昇れなかったそうです。
〇三嶋神社 ・・・ 10世紀初、藤原忠平の子・経高が梼原の荘を開いたのであるが、その際祀った神社だそうです。伊予河野氏の支援を受けたことから、大三島神社を勧請したという。この神社の横から伊予に出る峠道があり、坂本竜馬、吉村寅太郎らの「脱藩の道」である。
四万十源流の一、梼原川を渡る屋根橋が特徴的。ここも拝殿の彫刻とかすばらしい。
〇維新の門 ・・・ 脱藩して天誅組や蛤御門の変に参加した志士らの像である。
すぐ近くに天守閣型の公民館もあって不思議な空間である。
〇梼原人の歴史民俗資料館 ・・・ 一階の梼原の歴史も勉強になるが(38豪雪とか)、二階の数千点という民具がたいへん迫力ある。
これは津野の神楽面の数々。
〇堂海公園 ・・・ 五山文学の双璧、義堂周信と絶海中津は二人とも梼原の隣・津野船戸の出身。生まれた地は船戸の村にあるんですが、この二人の銅像が「堂海公園」というところに建っているというので行ってみたが、すごい山道を昇ったところにあり、二度と行けないと思う。
右が絶海中津、左が義堂周信両先生だそうです。二人は高知市内の五台山で夢窗疎石に学び、そのまま京都に上って、足利幕府の外交僧としてチャイナに渡ったりした。そして、ゲンダイにおいてはこんな山の中にこの銅像が建っているのである。もし山中を彷徨ったひとが夜中ここにやってきたら、恐怖のため白髪となるであろう感じは否めない。
須崎まではまた行って、「八百比丘尼の塔」なるものを観てみたいものである。
高知駅前のレッツゴー三匹像。右から中岡慎太郎、坂本竜馬、武市半平太。今回は吉村寅太郎像を見逃したが、高知は銅像好きみたいである。
2月24日(月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日は天皇陛下のお誕生日の振替でお休みになったので、以前から行こうと長くも思っておりましたところの
〇国学院大学博物館 ・・・ へ行ってきました。企画展の「好古家」も興味深く見せていただいたが、常設の神道コーナー、樋口清之先生の手塩にかけた考古遺物が集まる考古コーナーはともに勉強になり、かつ感激的であった。行ったことないひとは行くといいですよ。入場無料。
大学マスコットのこくぴょんくん、ライバルのあくぴょんくんも出迎えてくれる。
うわーい、ジョウモンや!
ハニワや!
そしてほとけさん!
もちろん石器も弥生もあるんです。
近くにあったのでついでに
〇山種美術館 ・・・ 上村松園美人画展をやっていましたが、まあそんなところでしょうか。1200円(JAF割引あり)。
〇渋谷区白根博物館・文学館 ・・・ 100円。企画展としては「丹下健三と代々木競技場」をやっていました。あんまり建築に興味ないんですが、オリンピックに間に合わせるため、22か月かかるところを19か月でやった、とか書いてあって、高度経済成長期のおとこたちの仕事場だから毎日残業しまくったんやろなあ、と思いました。星一徹もそこらで働いていたはず。
博物館は普通の郷土資料館で、ひととおり歴史、民俗について展示あり。狭い中にすごくコンパクトに封じ込めてありました。文学館も普通の文学館で、文学者たちは時代に抗った弱者(笑)の側ということになっているのでしょう、例えば与謝野鉄幹・晶子については互いに初婚としか読めないような解説になっている。(大笑)
ここは白いハチ公が出迎えてくれます。松崎慊堂邸の跡地に建っているように読めましたが、確かかどうかわかりません。
2月29日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やきうオープン戦始まったが、無観客試合なので観戦できず、退屈である。そこで、次の二か所へ。
〇皇居東御苑 ・・・ 豊後ウメがよく咲いていました。海外のひと多いがさすがにチャイナの人は見かけませんでした。
平河門付近。着実に春が近づいてきているんだけどなあ。
〇東洋文庫ミュージアム ・・・ 企画展「大清帝国展」を観に行く。都内あちこちで昨日から閉館していますが、ここだけ来週の3日までは開けてくれています。見たい人は、急がないと・・・。
知的なくすぐりもあって、実によく出来た展示ですよ。
モーリス文庫の威容。ここは人を威圧せんとする知の帝国なのである。
3月8日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
例年だとこの時期から「観光」が減って「観タマ」になるのですが・・・。
無観客試合のため、今日は埼玉県比企郡小川町へ。中世は豪族・猿尾(ましお)氏の本拠地として、また近世にかけて秩父往還と鎌倉往還の交わる地として、たいへん重要だったんだそうです。ゲンダイにおいても、ヤオコースーパーと「しまむら」の発祥の地として名高い。
〇小川町和紙センター ・・・ 昭和11年に出来た製紙工業試験場の建物で、昭和13年の厚子内親王ほか皇族もお見えになっておられる。
開館中と看板にはあるのですが、コロナで立入自粛してください、と書いてあった。係の人がいなかったので玄関から観れる範囲で展示みた。
〇呑龍お籠り堂 ・・・ 呑龍というひとがよくわからないのですが、近くに呑龍子育て地蔵尊もあり。(→3月9日追記:呑龍は下野太田の大光院に住した呑龍和尚のことで、呑龍さまは親の為に国禁を犯した子どもをかばって罰を受けたりしたので、子どもを守ってくださる、ということで「子育て呑龍」とされ、北関東に呑龍を祀る風習ができたとのことがわかりました。ここも「呑龍さまが籠ったお堂」ではなく、「呑龍さまを祈念して、みんなで籠るお堂」の意のようである。)
槻川河畔にあるお墓の中にあります。
〇八幡社 ・・・ 鎌倉幕府が滅亡したとき、執権だった北条氏がみんなで自殺しちゃったのは有名ですが、幕府には将軍もいたんです。鎌倉幕府最後の将軍は守邦親王という方で、幕府滅亡後の行方は知られてないのですが、この小川の地で猿尾氏のもとに寄寓していたとされます。その時、親王が勧請したのがこの八幡社だということじゃ。
境内はかなり広いです。ケヤキの神木があって、その根元の井戸(いまはない)は涸れることが無かったよし。
〇穴八幡古墳 ・・・ 石室を持つ方墳。八幡社のすぐ南に位置し、ここから真下に槻川とその両側の比企盆地がよく見える。河川から見上げられるところに作られた古墳である。
江戸期には石室内に穴八幡が祀られ、吉原の女郎衆からも信仰されたという。
〇大梅寺 ・・・ 曹洞宗。猿尾氏の外護により創建されたようで、守邦親王はここで末期を迎えた、とも。
かっこいい二連板碑。ほとんど比企地方にしかないそうです。光明真言が刻まれている。
〇中城跡 ・・・ 猿尾氏の居城と考えられている山城。ここに仮寓して、鎌倉期に「萬葉集集釈」を著した仙覚律師の顕彰碑が立つ。師は常陸のひとである。
本郭比定地。土塁とかよく遺っている。
城内にある「半僧房権現社」。参拝道の両側に古拙愛すべき石造羅漢像があります。
肝冷斎風なデザインである。
小川町から寄居町の男衾へ。「男衾三郎絵詞」で名高い。
〇小被(おぶすま)神社 ・・・ 式内社です。
荘厳な雰囲気である。
〇出雲伊波比神社 ・・・ 式内論社です。もと寄居町小河内というところにあったのを、十六世紀に移したという。源頼義が旗を置いてったというので八幡社を名乗っていたそうですが、明治になって出雲伊波比に直したそうです。
境内に「馬大神」の碑あり。
観タマできないが、何とか古墳+式内社+中世山城のコンボを達成。納得の日曜日であった。明日が来なければもっといいのですが・・・。