自粛篇・フィールドワーク録21−2(補足) (令和2年3月28日(土))  目次へ  令和2年3月14日〜へ戻る

自粛中に、幻覚をみた・・・ようである。

3月28日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

那覇からバスで東風平へ。

〇軽便鉄道東風平駅跡 ・・・ 記念碑ができた模様。

〇東風平の殿(氏神)・・・ 氏神拝殿は昭和43年建立とのこと。

ここを昇ると拝殿があり、さらに奥にイビらしき場所もあります。振り向くと東風平の邑が見渡せる。

〇伊覇の獅子 ・・・ ネコ化している。

西方を見ている。

〇神谷の嶽 ・・・ 何も無い草むらがある。

四か所の殿があるらしいのですが・・・。

〇西ぬ方の獅子 ・・・ このあたりはかつては東風平の馬場であったという。

南方を見ている。

〇ジングシクムイ ・・・ 祠があります。

〇獅子ヒサ洗いガー ・・・ 獅子の足洗い井戸。

住宅の塀に埋もれている感じ。今は水は涸れていますが、村落祭祀で拝まれているよし。

〇松尾ぬ嶽(金満御嶽)・・・ 東風平の村の南外れにあり。

中には火の神などが祀られています。

〇松尾ガー ・・・ 松尾御嶽の裏手にあり。

東風平といえば謝花昇であるが、謝花昇像を探したが、移設されたようでわかりませんでした。

東風平から軽便鉄道跡を歩いて世名城へ。

〇世名城のがじゅまる ・・・ 本島最大のがじゅまるともいう。あたり一面暗くなるぐらい。養鶏場があって、やがて縊られるニワトリの声がしていた。

〇志伊良あたりの殿、神あしゃき、なーかやー ・・・ このゲゲゲ道を昇っていくと、拝殿、イビらしきものなどがあった。

神威びしびしたるものがあって、ちょっとコワかった。

〇ひじゅなー

〇アーチ形がじゅまる

〇後(くし)の御嶽

この石段を昇ると小さな祠があります。右手の森が御嶽でしょう。

〇平田門 ・・・ 世名城に南側から入る時の入り口らしい。「平田ジョー」。

〇御穂田 ・・・ その機能等は調査中。畑地一帯の中にある草むら。

〇なかぬカー、ノロ殿内

高良へ登る。さすがに疲れてきた。

〇さーたーや跡

〇タルガ―

〇上ぬ城 ・・・ 石垣が少しあって、その上は木々に覆われています。

下ぬ城の碑は発見できませんでした。

〇中ぬ殿、中ぬ殿ガー

中ぬ殿。少し右手を見ると中ぬ殿のガーがある。この奥にもゲゲゲ道があって迷い込むところでした。

世名城の殿を目指したが、ここだと思うところがあったが草が茂り過ぎていて入れず。

〇上ぬカー

かなりゲゲゲ。この左手の方から回り込んで、右手の方まで石段を下ると泉がある。

〇知名御嶽、大屋の殿、殿ガー ・・・ 今回の最高霊的地点が大屋の殿。「知名」は「キナ」で、焼き畑地(南九州のコバ)。イビ御嶽に比べて焼き畑用の高所にあるがゆえの名であろう。

左手の木立が知名御嶽。入れるとかそういう状態ではありません。右手の木立が大屋の殿。

入っていくとこうなっていて、奥のがじゅまるの右側には琉球石灰岩が白い骨のように転がっています。右手隅に大屋の殿ガーあり。本島南部にこんな神秘的な場所があるとは思いもしませんでした。夜中に迷い込んだら恐怖のため白髪化すると思われる。

〇ノロガー ・・・ このあたりに緑色の本土では見かけないヘビのかんぴんたんあり。

〇イビ御嶽、イビガー ・・・ 知名御嶽の北側の断崖の下になります。

この拝所の裏側にイビっぽい場所があります。さすがに入り込む勇気なし。

与座まで歩いたが、与座を探求する元気無し。バスに乗って糸満バスセンターへ向かう。

与座のバス停近くにあった「高嶺の水タンク」。もとの与座ガーの水を用いて戦後すぐに作られたもので、現役。ただし、地元民以外は使うな、とのこと。

糸満バスセンターがあまりにも昭和40年代的事務所で、やかんでお湯沸かしてたんですばらしかった。

以上は、自粛中にこんなものをもらったので、見た幻覚であろうか・・・。

次におきなわにいつ行けるか、野球が始まる前か、それまでおいらは発症しているのか、など、思うこと多し・・・。

 

4月5日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日も自粛していて、秩父皆野あたりの幻を見た。

〇前原の不整合 ・・・ 国指定天然記念物。「不整合」というのは、地層と地層の間に長い時間的隔たりがあるものを言う、そうです。

下の黒い部分とその上の白いところは、下のが一回海の上に出て風化したあと、また海底になって上が沈殿した、という関係にあるので、数億年の間隔があるんだそうです。しかし実際はどこまでが「黒い」のかどこから「白い」のかよくわからん。岩の上に小祠あり。

〇大浜の円福寺 ・・・ 真言宗豊山派。平将門創建と伝わる。域内に将門の弟で源経基に討たれたという平将平と、将門のオジキ良文の子孫・畠山重忠のおやじである畠山重能の墓と伝わる古い五輪塔二基あり。

円福寺は、下記の椋神社(むくじんじゃ・皆野)の神宮寺であったという。なお、このあたりはあちこちに金子兜太の句碑があった。

右手の崩れた五輪塔は「新編武蔵国風土記」では将門さまの墓とされているそうですが、円福寺の寺伝では、将平さまの墓とのこと。なお、「平将平」は、「山本山」レベルには回文である。

こちらの五輪塔は地・水・火までしか遺っていない。重忠のおやじ、畠山重能は木曾義仲を助けたひとです。畠山に住んでいるときに重忠が生まれたが、もとは秩父平氏である。

〇椋神社 ・・・ 途中の観音堂前で、九十三歳のばばあと会話し、「こんな豊かでいい時代に、楽しんで生きろ」と励まされた。久しぶりで善智識に会ったようだ。

椋神社は延喜式内(論社あり)。郡内に椋神社は五つあるそうですが、五つとも「式内社と名乗ってよい」という関係にあるんだそうです。

〇大塚古墳 ・・・ たいへん美しい形の円墳である。七世紀第二四半期と推定されている。もと周囲に多数の古墳があった模様。

サクラ盛りであった。階段の左下あたりに横穴式石室が開口しています。入れません。

古墳の傍の畑地にあった小さな石積み。秩父はこういうのがあるのでオモシロい。

〇小池氏館跡 ・・・ 小池氏は中世からこの地にあり、後北条被官の後、江戸時代には名主家として続いた。中世様式の心字池が遺る。

「ここでは魚とってはいけません」とされていたが、魚いません。

〇稲穂山古墳 ・・・ 在日韓国人のひとが作ったムクゲ自然公園の中にあり、平成九年に発見され、秩父の古墳時代を一世紀早めることとなった四世紀の円墳である。山の尾根部に築かれている。「渡来人の文化」だそうである。

昇っていくと竪穴石室のあとらしきものがあります。すばらしい景観も楽しめる。

〇森の美術館 ・・・ 七宝焼きの展示がありました。

自粛中なのに、古墳、式内社、中世城館のセットを達成。あごだしそばや味噌ポテトやわらじかつ丼などを食いまくってしまったが、マボロシなのでカロリーは大丈夫だぁ。

 

4月12日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

桶川から菖蒲行きのバスに乗って久喜市内で降りる。

〇栢間陣屋跡(下栢間小学校) ・・・ 徳川家康の江戸入りのとき、16将の一人・内藤正成がこの地5000石を領して陣屋を設けた。その後、幕末まで内藤家の支配にあったそうです。

〇神明神社・鎮守の森公園 ・・・ 栢間(かやま)の神明社は景行天皇が吾妻にお見えになったときに建てられたのだという。江戸時代に内藤領総鎮守として保護されたのだそうです。

この参道が550メートルもあります。たいへん広い敷地で、幽邃であった。

〇天王塚古墳 ・・・ 墳長100メートルを超える6世紀後半期の前方後円墳で、栢間七塚の中心的存在である、とされる。

後円部と前方部の間に正法寺薬師堂が建つ。

〇富士塚古墳 ・・・ 栢間七塚の一つ。頂に木花咲也姫神を祀る。碑に「三」の字が入っているので冨士講のひとたちが立てたようです。

現在の形は方墳であるが、円墳かも知れません。

〇正法院 ・・・ 不動明王を祀る。中世領主・鳩井氏の関係者が建立か。

15世紀に作られたこんな十一面観音像があり、昭和期に彩色されて美しい。(写真を撮ったものです。現物はお厨子に入っている)

桶川側に戻ります。

〇多氣比売神社 ・・・ 延喜式内社。葦嶽姫神さまを祀る。もとこのあたり(大字篠津)は、元荒川沿いの湿地帯で、しの(竹)の多い津(川港)であった。その港神であろうという。

江戸時代は「姫神社」と名乗っていたという。「大日本地名辞典」の吉田東伍先生は、こちらではなく氷川女体神社が多気比売神社だ、としています。従って「論社あり」。「竹姫」さまで、変に売り出さないところがいいですよね。

境内にはシイの木が多い。

「力石ふたつならんで競い合い」という川柳?が掲げられていた。

〇弁財天祠 ・・・ 篠津の沼の洪水を抑えるために江戸時代に地元民が祀ったという。

それをここへ移してきた、というようなことが石碑に書いてあります。

〇後谷(うしろや)遺跡 ・・・ 縄文晩期の遺跡があり、地下水に密封された状態で「漆塗り竹製」の櫛が出たので名高い。

サクラの木の下から向こうの工場のあたりが主たる遺跡のようである。

〇光照寺 ・・・ 中世、加納城を治めた桶川6人衆の一人、木本家(江戸時代は名主)の菩提寺。

高野マキのでかいのあり。

〇加納城 ・・・ 木本家の居城。13〜16世紀の居館で、内郭と外郭があったようで、1960年ごろまでは航空写真でもはっきりわかったそうであるが、現在は土塁だけを遺して宅地化されてしまった。

土塁と空堀がわずかに遺る。内郭側から外郭側を見る方向。

〇加納天神社 ・・・ 天神社に明治になって氷川社が合わせ祀られたが、境内に霊井あり、その水を沸かした薬湯は万病に効くというので、その風呂に入りに中山道の旅人が寄ったそうである。

鳥居の題字(天満宮)は、後に梵字の研究者として有名になる盛典上人がまだ光照寺で修行中に書いたもの。裏には梵字が書いてあるよし。

この井戸から汲んだ水を沸かして風呂にした。ルルドの泉みたいである。

加納から北本に出る。自粛で軽く散歩のつもりがたいへんな距離に・・・。

〇野中にあったこの石碑、よくよく見ると墓石のようなんですが、「慶長年中」と刻まれており、おそろしく古いものなので驚いた。

秀吉関東攻めの際の忍城の防戦を仕切ったのが鳩井氏のよし。その時代のものであるというのか。 

背徳感に苛まれつつも、式内社+古墳+中世城館セット達成・・・。

4月18日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

お昼過ぎまではひどい雨風でしたが、夕方晴れたので、飯食いがてら都電で隅田川を観に行く。

〇舩方神社 ・・・ 舩方村の鎮守。もと「十二天森」といい、仏法守護の十二天、あるいは豊島氏の姫君が隅田川で自殺したおりに殉死した十二人の侍女を祀るともいう。

正面、灯りがついているのが拝殿で、その右手に「十二天塚」(十二人の侍女を葬った)の石碑があります。

隅田川・梶原の渡し付近。こちら岸の北区側と向こう岸の足立区側をつなぐ渡し船が昭和中期まであったそうです。

4月19日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は晴れたんで、戸田彩湖公園で散歩した後、桶川市の荒川河畔にある三ツ木城址へ。

〇三ツ木城跡 ・・・ 鎌倉期の城郭とも後北条時代ともいうのですが、発掘上は13世紀のものと思われる。

この奥の森が城址です。私有地だし、溝があって入れません。

が、溝を飛び越え転んだりしつつ、冒険歴史民俗研究家として、土塁と空堀を確認。周りが公園なんですが、子どもたちも入ろうとして「ここムリだぜ」と入れないところまではいったのだ。

〇東叡山専福寺 ・・・ 慈覚大師勅願により創建という9世紀の古刹である。

見づらいでしょうが、この楼門には17世紀の仁王像があります。その後ろは市指定天然記念物の大銀杏。その奥には、アミダ堂があって、13世紀・定朝様とされる重要文化財の阿弥陀如来座像が収められている。石仏群もあって見どころ多い。荒川河畔の重要地であったのだろう。

4月25日(土) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

戸田公園で地域ネコみたあと、浦和大久保へ。荒川沿いに大久保古墳群がありますが、今回はその一部だけ見学。

〇天神山古墳 ・・・ 前方後円墳らしいんですが、駐車場の片隅にあって、形態等明確ならず。

竹藪に踏み入ってみたんですが、盛り土はあまりはっきりしませんが、不法か適法か知らんがいろんな投棄物だらけ。

〇廃村跡 ・・・ この周辺は、有名な廃村跡らしいです。ちょっと見に行ってみましたが、途中からこれはマズい、という非合理的な恐怖感に捉われたので、ここでは紹介しません。多くの冒険歴史民俗調査を興味本位で果たしてきた肝冷斎でさえ、ホントに興味本位で行けるところではないような感じ。

4月26日(日) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

東松山から高坂にかけて散策・調査す。

〇七鬼神社 ・・・ 町なかにあった。七鬼とはまたゆかしい名前である。

社殿の右壁に「相撲甚句」が掲げられていて、「相撲でけがするやついないよハアー」とかオモシロかった。

〇野本八幡神社 ・・・ 野本総鎮守。

さわやかな神社です。獅子踊りが伝承されているようです。梶田先生もおまいりしたことでしょう。

〇野本将軍塚 ・・・ 埼玉県内第二位の規模を誇る6世紀末の巨大前方後円墳です。「将軍」とは、「利仁将軍」のことです。「今昔物語」に登場する藤原利仁というひとで、蝦夷征伐のために将軍となって、東国にも来た(とされている)のです。芥川龍之介に芋粥食わせたひと、といった方がわかりやすいかも。

野本は藤原基経に仕えた野本氏の本拠で、お寺と野本小学校の間に土塁だけ遺っていますが、野本氏は自らも藤原氏とし、利仁将軍の後裔として、利仁将軍神社を古墳の後円部に祀ったので、今に至るも「将軍塚」と呼ばれるのである。ちなみに野本小学校はノーベル賞の梶田先生が卒業した学校です。

将軍塚古墳はかなり遠くからでも視認できます。左手が後円部。もう少し離れると都幾川があるので、そこから見上げられる場所に造ったんだと思います。

利仁神社の入り口。後円部上にある拝殿には、利仁将軍が麻疹に罹ったときに枕にした石が格納されているとのことです。

〇高坂館跡 ・・・ 高済寺から南側の方が中世・南北朝期以来の高坂氏の館跡ということで、戦国期の濠も発掘されていますが、寺には江戸時代初期にこの地を領した加々爪氏時代の陣屋の土塁が遺る。

加々爪氏一族(当地の領主としては三代続いた)の墓。県指定史跡。実はこの丘が高済寺1号古墳の後円部でもある。

お墓の方から見下ろした状態。実はこの前方部がそのまま高坂城の土塁となっています。古墳自体は発掘されていないので、造営時代不明とのこと。

〇七清水 ・・・ 高済寺下の清水から、河岸段丘下の水路沿いに七つの清水(泉)があります。さわやかなので、自粛終わったらまた来てみたい。

〇小代館跡 ・・・ 天台宗・青蓮寺の境内ですが、鎌倉時代の児玉党の一派・小代(しょうだい)氏の館跡と伝わる。小代氏は文永年間に肥後に所領を得、現地に入って対蒙古戦の中核となるよう幕府に要請されてこの地を離れたそうで、肥後ではその後400年ぐらい続いたとのこと。

観音さまとケヤキの間に見える小さな堂に、弘安四年(1281)に小代氏が建てた板碑が保管されています。

立派なものです。こんなに古い板碑見たのは初めてである。

〇正代(しょうだい)御霊神社 ・・・ 今の地名は「正代」と書きます。青蓮寺のすぐ隣にある御霊神社です。御霊神社ですから、もちろん怨みを持って亡くなった方の御霊を慰めているわけですが(「五霊」と書いている例もあり)、ここの御霊はなんと「悪源太義平」さまだそうです。

ここのケヤキはすばらしい。七清水の河岸段丘(ハケ)はここまで続いてきています。

〇高坂神社 ・・・ 坂上田村麻呂が九世紀初頭に創建したという伝説があります。ここの裏の忠魂碑の文字がすばらしいので確認したら陸軍大臣時代の田中義一の揮毫であった。

〇高坂駅前 ・・・ 梶田先生の頌徳碑(いまはそういう言い方はしないんでしょうけど)がありました。

右側の石の上の変なモノは、カミオカンデに使われている光球の模型だそうです。梶田先生はほんとに地元で育って川越の高校へ行って浦和の大学でたひとだから、ほんとに地元民です。

4月29日(水)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昭和の日です。さいたま市鴨川沿いの古墳めぐり。一部は古墳を見始めた十年ぐらい前に彷徨ったところだなあ。デジャブのように思い出しました。まわりの住宅地化が一段と進んでましたような感じです。(すごい遅い時間になってしまい、明日ちょっときつい会議あるんで写真は明日以降アップします)

〇側ケ谷戸古墳群 ・・・ 荒川左岸、鴨川という川沿いの古墳群です。

・円阿弥古墳 ・・・ 家と家の間の不思議な空間にあります。

この茂みが古墳。右も左も住宅です。

・稲荷塚古墳 ・・・ 学校の中にあります。怪談があって登れるみたいなんですが、学校の校門から「用が無いひと」は入れないんで登れません。

むかし来たときは周囲がテニスコートで女子高生がテニスしてたんで写真撮れなかったような記憶が・・・。今は工事中で撮れました。こんもりしているなあ。

・山王塚古墳 ・・・ 平安時代よりの古刹・慈叡山慈宝院横のお墓の中にあります。露出している石が石室の一部らしいです。

慈宝院さま。お墓は慈宝院さまのものではなく、昭和何年かに地元の田嶋なんとかさんが土地を寄附してくれた共有墓地だそうです。

この松の木のあたりが古墳(跡?)。少し見える石が石室の一部。

・上之稲荷塚古墳 ・・・ アパートの入り口をさえぎるように遺してもらってあります。

墳丘上にお稲荷さんがあります。

・台耕地稲荷塚古墳 ・・・ ここも墳丘上にあります。稲荷塚とここは以前来た。

家と家の間にこんな幻想的な場所があるとは。

〇大久保古墳群 ・・・ 側ケ谷戸古墳群の南にあります。

・かね山古墳 ・・・ 住宅地作る時に遺してもらったようです。

ここだけ道路も家も避けて遺されています。ありがたい。

・権現塚古墳 ・・・ 家の裏に遺してもらったようです。

左側のアパートから忍び込めそうだが、自粛中なので冒険は止めておきます。

・白鍬塚山古墳 ・・・ 五世紀前半のさいたま市域最古級の古墳です。

家と家の間に盛り上がるように遺されています。ハニワがたくさん出たそうです。

・鴨川 ・・・ 司馬遼太郎先生によると「カモ」は出雲族の一族「カモ族」の住地であろう、というが、肝冷斎は海人族の「長ぼそい谷型地形」に付ける地形名称という説に与しておる。

この鴨川をさかのぼると式内・武蔵二宮の足立神社があった、とされている植田谷地域につながります(あったとされてるのは、今は無くて、今足立神社を継いでいるのは、江戸時代に足立神社が廃絶しているのは残念だといって祀るようになった神社だからです)。いっぽう、鴨川を南に下ったあたりには足立廃寺があったと言われています。

ああ、また日が暮れていくのう。極楽の方に・・・。

5月1日(金)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

午後、有給休暇をとって、ごろごろ。ついでに、高田馬場へ。

〇堀部武庸加功顕彰碑 ・・・ 堀部安兵衛がでかいことやったことを顕彰するもの。

明治の終わりごろ建てられたそうです。「篆額」は西園寺公望、碑文は日下部鳴鶴の字。大隈重信侯や三田村鳶魚翁も賛同者になっています。

〇水稲荷神社 ・・・ 幽邃である。

不思議な空間である。ポケモンは不信仰・不正理であるから止めるようにとの貼り紙がありました。

〇甘泉苑 ・・・ 御三家・清水家の庭園で、明治に相馬家のものになり、その後早稲田大学が買い取り、戦後新宿区が買収したという。

感染えんではありません。

5月2日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自粛はしているんです。今日は午後だけ、松戸〜流山へ行ってみた。

〇風早神社 ・・・ 千葉氏の一派とされる風早氏が支配した風早荘の総鎮守として、鎌倉時代に創建されたとされる。

風早神社のすばらしい銀杏樹。初夏である。暑かった。

〇本福寺 ・・・ 時宗。南北朝期までの上本郷城跡と比定される。水戸街道に近いため、幕末期には吉田松陰が転がり込んできたり、水戸藩諸生派のひとがぶっ殺されたりしていた。

廃仏毀釈のあとを留める「斬られ地蔵」である。

〇小金城 ・・・ 16世紀前半に千葉氏系列といわれる高城(たかぎ)氏が東葛飾支配のために設けた巨大な城郭である。高城氏は秀吉の小田原攻めで落魄。江戸時代は名主をしていたらしく一族が元禄時代に祀ったという平戸弁天さんも近くにあります。

すごい広かったみたいです。

大谷口虎口跡。現在公園化されているのは、大谷口郭分だけであるが、そこの土塁・掘割は一見の価値あります。

〇流山鉄道 ・・・ 単線でかっこいい。大正五年開通。

終点の流山駅。なお、6駅しかなくて全部小さいんですが、すべて有人駅。小金城址駅で行違うときには、両方の運転手さんが降りてきて確認しあっているのがかっこいい。

〇流山市街 ・・・ 流山街道の宿場町です。

・六部祠 ・・・ 看板では行き倒れた六部を祀ったみたいなことが書いてありましたが、そうではなくて満願のお祝いの碑を祀ってあるみたいですよ。

・浅間神社富士塚 

100円寄附して登りましたが、登りがいがあった。

・街並み

国登録建築物もたくさんあります。

・近藤勇本陣跡

ここで捕縛されて板橋まで行って斬られた。

・焔魔堂 ・・・ 金子市之丞、三千歳の墓あり。

覆屋の中にあるのが金子市之丞の墓。市之丞は17世紀後半に流山の商家に生まれ、バクチに手を出して勘当され、盗人に身を落とした。18世紀初頭に上方で捕縛されて江戸に護送され、小塚原で獄門、というかなりどうしようもない人なんですが、「天保六花撰」の中で義賊とされ、人気を博した。三千歳はその女房だか情婦で、覆屋のすぐ右に墓石があります。

・江戸川

緊急事態宣言中ですが、初夏の日差しが目に染みた。ちゃんと自粛しないと・・・。

5月3日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ちゃんと自粛しないといかん。今日は千葉県山武郡で自粛。

〇芝山の大宮神社 ・・・ 村社です。

すばらしく神さびていました。でかい木を使って10月に獅子舞のはしご乗りをするらしい。

〇芝山古墳群 ・・・ 国指定史跡です。全部で17墳あるらしいんですが、有名なのは下の二つ。出て来たハニワははにわ館に展示されているんですが、今は閉館中。

でかい方の殿塚古墳(前方後円墳)。80メートル超。山武郡には古墳が1000あるらしいんです。

こちらは姫塚古墳(前方後円墳)。50メートル超。いずれも6世紀末とされる。

すばらしい。

〇松尾の高野神社 ・・・ すばらしかった。村社です。
スギとマキのでかいのがたくさんあった。

〇同・薬師堂 ・・・ 祠です。まわりには古い墓石がたくさんあった。とりあえず天明年間が一番古かったか。

右側の小さな碑は大正年間の「伊勢四国西国参拝記念」。

〇山室姫塚古墳 ・・・ 未発掘の巨大円墳。七世紀半ばとされる。このあたりに17基ぐらいある中の主墳。木戸川という(いまは小さな)川から見える場所のようです。

道の右側は古墳の端っこらしい。右手に入っていくと畑があって、そのあたりから入り込むと古墳がある(神社もある?)みたいなんですが、畑仕事の人もいるんで冒険的行為はガマン。

〇大堤権現塚古墳 ・・・ これは驚きました。こんなのがこんなところにあるんや。

たいへん入りづらいところにあるのですが、行ってみてびっくりした。墳長110メートル超、三重周溝をもち(全国に6例しかないんです)、6世紀末〜7世紀初(聖徳太子のころですね)建造古墳としては全国最大。これは周溝部から後円部を見上げたもの。

後方部の正面に「箱根権現社」があるので「権現塚」といいます。正殿の背後が後方部になっている。この神社も相当なかっこよさ。

後円部にある「埋葬施設跡」。中央部緑色になっているのは苔むした石で、石室の一部である。

〇老尾(おいお)神社 ・・・ 匝瑳市にあります。式内社。

たいへん神さびた森の中にあります。摂社の類が覆屋がなく、石祠剥き出しであちこちにあるので、深夜にくると恐怖で白髪化する感じです。

〇山武殿下の道の駅施設にあった郷土関係者コーナー
長距離陸上創成期を支えた秋葉祐之関係資料。このほか、童話作家・北川千代のコーナーがありますが、ブルジョワ出身の北川よりその二人目の夫の人が労働運動オルグが職業だったそうで、このひとの人生にたいへん興味が湧いた。足尾銅山で3000人を組織したほか、全国を回っていたそうです。名前忘れた。鈴木孝政さんのコーナーがあったみたいですが、今は別の施設に移っているとのこと。

(付録)

山室姫塚古墳を探している途中、東京電力の鉄塔の下に出たので、見上げた状態を撮影しました。美しいなあ。今日は自粛の仕方が悪いので忸怩たるところがあるのですが、古墳や神社や鉄塔など、すごいいいものが見られました。ありがとう。

5月4日(月) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

マジメに自粛しないといけないんですが・・・、狭山へ。

〇稲荷山公園古墳群 ・・・ 米軍から返還された将校用住宅跡地を公園にする工事をしていたら、家の下の地面の下から「刀」が出てきてしまった。しかも文字が書いてあったので有名になりました。ただ、古墳としてはもともと半地下式群集墳のため、住宅地になったときに削平されて、ほとんど認識できません。七世紀のもので、発掘したら六基ぐらいあったみたいです。

発掘報告の地図と照合しながら歩いてみたんですが、これが三号墳ぐらいかなあ・・・。入間川から運び上げてきたと思われる河原石で埋葬用の穴を作っているらしいので、河原石が発見できればおそらくそこが古墳跡。二か所ぐらいありました。

〇広瀬神社 ・・・ 稲荷山から入間川を隔てた地にある式内社。

郷社だったが社格が低すぎると運動して明治時代に県社になりました。祭神はうかのひめのみこと。水神とされ、おそらく開発女神でしょう。

今もこんな神池があってまんまんと水を湛える。なにやら主みたいなのが撥ねたり潜ったりしていた。夜中はコワいと思われる。

樹齢八百年クラスのケヤキが二本あります。でかい。ほかに樹齢四百年というウメ(「不朽の梅」)があり、ウメは200年でねじれてくるそうなんですが、ぐりぐりにねじれていました。

この社名額は明治三筆のひとり野村素介。長州藩士で維新後貴族院議員。ほかに中澤雪城(長岡藩士)の額や明治期に活躍して地元選出衆議院議員にもなった清水宗徳の頌徳碑などもありました。

〇富士見橋 ・・・ 今も架け替えられて現用されている橋ですが、入間川にはじめて架けられた橋だったそうです。

これは大正九年にはじめて「舩橋」として架けられたときの記念碑。それまでの渡船と違い、「無料」であることを高らかに宣言している。

〇狭山八幡神社 ・・・ 創設は不明だそうですが、鎌倉時代にはもう有名だったらしいです。

まん中に生えているのは(何代目か知りませんが)新田義貞足かけの松。入間川は新田義興と畠山国清決戦の地でもある。なお、背後の正殿は見事な透かし彫りで、二十四孝かなんかだと思いますが、故事の場面が彫り出されている。

境内社に入間川神社のほか、「甚兵エ大権現」さまがあり、その来歴を知りたかったが、手掛かりはなかった。(→5月6日を見よ)

ほんとに明日はちゃんと自粛しなければ・・・。

 

5月5日(火) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ちょっとだけ出かけました。荒川左岸、桶川と上尾の境の樋詰(ひのつめ)、畔吉(あぜよし)あたり。4月19日のすぐ下流、4月29日よりかなり上流になります。

〇熊野神社古墳 ・・・ 4世紀後半、この地域でもかなり古い円墳です。昭和3年(なんと、もう92年も前です)、神社の改築をしようとしたらザクザクと、畿内系の碧玉装飾具が大量に出てきたんです。これは国宝(現在は重要文化財)になりました。

円墳のいい形のままで遺っています。拝殿の横に昭和三年に建てられた「国宝碑」があります。なお、拝殿の裏の壁に20〜30年ものかと思われる落書きがあって「I labu you」と書いてありました。はじめは目を疑った。

こんなのがザクザク出たんです。現在は埼玉県立博物館にあるとのこと。

〇橋本泰蔵君之碑 ・・・ 橋本泰蔵は今となってはほとんどの人が知りませんが、明治前期の剣豪で、先祖は新田義貞に仕えたそうでうすが、小野流等の免許を得た後、樋詰に道場を開き、彼の率いる武徳会は、東京で行われた撃剣大会で好成績を収めました。明治三十二年に四十何歳かで亡くなったらしいんですが、大正三年にその功績を偲んで建てられたもの。

篆額はなんと三嶋中洲。撰文は衆議院議員の大島寛爾というひとなんですが、この漢文が上手いんです。実にわかりやすくて感心した。

銘の末文に曰く、

子弟擾擾如雲、 子弟擾擾(じょうじょう)として雲の如く、

緩急須護邦国。 緩急すべからく邦国を護らん。

 弟子たちはごたごたと雲の湧くようにたくさんいて、

 危急のときも平和なときも、いつだって国家と郷土を守護してくれるだろう。

だけでもご紹介するに値するであろう。

〇殿山古墳 ・・・ こちらは上尾市畔吉になります。五世紀初頭、上の熊野神社古墳の次世代の人の埋葬用かと思われる円墳。かなり削られているようです。

古墳自体は牧場の敷地内にあって牧場が閉園していたので入れませんでしたが、墓地の方から見ることができます。なお、この古墳は、古墳そのものより、昭和50年代に発掘調査したら、古墳のさらに下から旧石器時代の石刃が出てきて、それが関東型ではなく関西型だった、というので、有名なんだそうです。関西型を移入したのか、関西の技術者が移住してきたのか、全く独自に開発したのか、という三説があるそうですが、「説」というよりより数学の「場合分け」みたいですね。

 

5月6日(水) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

GW」は5月10日までだが、「連休」というと今日まで、という概念整理がなされているようである。あいにく今日は関東地方は雨で、カミナリも閃いていた。おまけにニ三日前から通風発症していて動くのがツラいところだが、自動車の通行量が減っているので、縁故車のブリスケで印旛沼方面に出かける。

〇上岩橋大鷲神社・古墳 ・・・ 今は道路わきの小さな丘だが、かつては印旛沼の水際線に築かれた古墳で、その上に神社が置かれたもの。春秋の獅子舞で有名だそうです。

形の整った円墳である。

〇麻賀多神社(台方) ・・・ 延喜式内社。こちらは男の子(ワカムスビさま)の神さま。推古天皇の時代603年に創建のよし。

境内に天日津久神や大権現も祀られている。

この神杉は、東日本一の大杉だそうです(西日本だと屋久杉や神宮杉がありますからね)。樹齢推定1200年とのこと。

〇麻賀多神社(船方・手黒) ・・・ こちらが奥の宮とされ、女の子(ワカヒルメさま)の神さま。

正殿裏にこちらも神杉がありますが、樹齢600年と書いてあったと記憶します。まだまだ子どもですね。

〇伝・伊都許利命(いつこりのみこと)墳墓 ・・・ 上の船方麻賀多神社の境内(隣接ということになるのかも知れません。金毘羅神社とされていました)にある公津原39号墳。

一辺35〜36メートルの方墳。この入口のすぐ右側に石室の入り口(今は埋没)があります。閉ざされているようですが、麻賀多神社側から昇れます。
古墳は江戸時代に発掘され、石櫃や石棺、中から刀とか鎧が出ました。ヤマトタケルの子孫で、初代印旛国造であると「先代旧事本紀」に書いてある伊都許利命さまの墳墓とされましたが、近代的な確証があるわけではありません。

〇甚兵衛渡し ・・・ 一昨日の宿題の「甚兵エ大権現」であるが、おそらくこの「甚兵衛」さんではないかと思われる。

義人・佐倉惣五郎が直訴のために日光街道に向かう途中、この河岸で印旛沼を渡る必要があったが、雪の夜で便船が無い。甚兵衛さまは、後で罪に問われることを知りながら義のために渡し船を出して惣五郎を渡し、その後、他に累を及ぼさないため雪冰の沼に身を投げて自死したという。近くに「甚兵衛頌徳碑」もあります。

なお、今回の調査では、佐倉惣五郎関係はここのみに絞った。

〇口の宮将門神社 ・・・ 本佐倉にあり、戦国期まで佐倉一帯を支配した千葉氏が将門さまの子孫を自称し、祀ったものという。

かなり辺鄙なところにあり、雨の夕方に訪れたらさすがにコわかったです。奥宮として将門さまのおくさま「桔梗のお方」を葬ったという桔梗塚があるとのことで、「これか」と思われる土盛があったが、その時雨激しくなり、「これはマズい」と思って写真撮影を控えて退散いたしました。なお、近所に「八幡社」があり、今回は調査を断念しましたが、参道が非常識に長く、調査意欲が湧いた。

今回は中世城郭である「本佐倉城」を観に行こうと思っていたんですが、痛風発症で歩きづらいので山城は断念した。

 

5月10日(日) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

はやく自粛終わらないと次のページが作れませんので困ります。本日は川越市内で古墳を散策。(写真は徐々に増えます)

〇仙波三社(三古墳) ・・・ 神社もかなり古く、鎌倉期に仙波一族(秩父平氏)が祀っていたようですが、三社とも6世紀の古墳に乗っかっているので、神社になる前から古墳ではあったのです。三つおまいりするといいことあるカモ。

・仙波氷川神社 ・・・ 仙波二郎安家の山車もあります。

古墳墳頂から社殿を撮りました。左の石灯篭もかなり古い。

・仙波愛宕神社(父塚) ・・・ この下に明治初期に仙波新河岸が開かれていた。いまは新河岸歴史公園となっています。

おまいりすると麻疹が軽くなるらしいです。

初夏の日差しが爽やかだぜ。なおここの社額は明治三筆・野村素介。
新河岸船着き場跡。明治初期に新河岸川最後の河岸として開かれ、川船で栄えたが、明治中期以降は鉄道の時代となり、栄華は過ぎ去ったそうです。

公園内でこれ食った。今日はこれを池袋で買ってしまったので、どこかで食べなければ、と川越に来てしまったんです。

・仙波浅間神社(母塚) ・・・ 富士塚になっているので、富士講のひとたちの記念碑が立っている。

どうみても古墳ですね。この墳頂部に浅間神社があります。

神社正殿後ろにある「噴火口」。落ちないように柵があり、柵を越えないでくださいと貼り紙もあります。

この神社境内に「鹿見古墳」の碑が立っていますが、これは大正期に東武線が牽かれた際に滅失した古墳に立っていたもの。萬葉集に出る「鹿骨占い」(ししうら)がここで行われたのだ、なぜなら(滅失した)古墳の名が「ししみづか」だったから、という理由で碑が建てられました。

〇三変稲荷神社古墳 ・・・ 三変稲荷さまの伝承もおもしろいのですが、この稲荷様の下の「方墳」はなんと四世紀。律令入間郡最古といわれ、畿内政権から下賜されたかと思われる宝物類が出ています。

近所の子どもたちが遊んでいました。方墳の形がよく遺されております。

〇中院

〇南院遺跡閻魔堂跡

〇喜多院慈眼堂 ・・・ 慈眼大師(天海僧正)をお祀りしたお堂で、背後に天海をはじめ歴代の大師方のお墓があります。

実はこの丘が古墳(慈眼堂古墳)です。

〇日枝神社 ・・・ 慈覚大師が喜多院建立の際に比叡山から招来したという830年以来の日枝神社ですが、その神域には前方後円墳(日枝神社古墳)もあります。

元国宝(現重要文化財)の拝殿。左隅に見えているのが日枝神社古墳。

〇喜多院は今閉鎖中なんで、閉鎖終わったらまた来たいですね。

とりあえず、柵の外から盗み撮りした「五百羅漢さま」。40年ぐらい前におやじが「観に行った」と言ってたんだよなー。

 

5月17日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

16日は雨だったんで自粛。今日もまあふつうに自粛。

〇戸田湖

今日は暑かったですね。

〇難波田城公園 ・・・ 武蔵七党の一・村山党の主力・金子氏は、鎌倉幕府に随って、承久の変の功績にて難波田(ふじみ野市南畑)の地を領有、以降、南北朝期を経て、上杉管領家に随って北条氏と戦って、難波田善銀が「川越夜戦」で敗北・戦死、その後は後北条に従って、小田原攻めで落城し、廃城となった。

旧城郭地の半分ぐらいを公園化。一部土塁も遺っているそうだが、郭や濠の形は元とは違うそうです。城郭コーナー、資料館、民家園、江戸期に修験系寺院となっていたときの墓地などがあります。これは資料館前から蓮の群生を経て「本郭」方面を見る。

二の曲輪方面から本曲輪を見る。発掘では内堀のかなり広いのがあったそうなんですが、復元では狭くしてあるよし。本曲輪正面に「難波田氏館跡」の石碑が立っています。本曲輪自体はもっと広かったようです。「園外に土塁あり」と書いてあったので園外に出てみましたが、家が建てこんでいて確認できず。

資料センター(現在は閉館中)の前に置かれている旧南畑村役場金庫(東京・平野製作所製でした)、ポンプ車など。

こちらは民家コーナー。正面は名主の金子家。手前にいる?のは、このあたりのゆるキャラらしい「なんばったくん」。移設民家はもっとでかいのもあり、現在中に入れないのが残念でした。

〇川越市・牛塚古墳 ・・・ 先週も彷徨ってしまいましたが、川越には古墳が多いんです。そのなかで、こいつが最大(42メートル)で前方後円墳です。仙波地域の先週のやつらと違って、入間川の西岸、線路わきにあります。

ぐしゃぐしゃとした路地を入っていくんですが、登ってみると意外とデカい。「ウシ」のような感じです。

6世紀の古墳で、石室からこの「黄金製指輪」が出た。

 

5月23日(土) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もうすぐ自粛解除だそうです。またあちこち混雑しますね。

〇彩湖自然観察センター ・・・ 四角池を散策しました。

ここにしかないトダスゲも生えています。

キショウブの花盛りであった。

〇戸崎(上尾)の浅間塚 ・・・ 江戸時代に作られた富士塚です。

個人所有の土地らしいんですが、昼なお暗い森になっている。

これが浅間塚です。富士山になっています(古墳ではありません)。今年は七月四日に「初のぼり」というお祭りがあるらしい。ホンモノの富士山は今年は登山中止らしいですから、こちらにでも行ってみてください。

 

〇5月24日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もうすぐ自粛終わり? 今日は寄居から児玉にかけ、神社めぐりだ。(写真はだんだん増えます(予定))

〇鉢形 ・・・ 鉢形城はコロナで休園中。近辺の神社めぐりだ。

・壱岐手長男命神社 ・・・ のどかである。

・婆羅伊門神社 ・・・ 「はらいと」だと思うのですが、社名額には「婆羅門宮」とあり、謎の神社である。

文化年間に建てられたと碑に書いてあるのですが、今の社殿が、なのか、神社自体の創建なのかわからない。

・稲乃売(いなのひめ)神社 ・・・ 式内・稲乃売神社に比定される(論社あり)

集落の中にひなびた感じでたたずんでおられる。

〇寄居 ・・・ 荒川沿いにさかのぼった。

・白髪神社 ・・・式内・白髪神社(しらかのじんじゃ)の論社の一。荒川の佐場(さば)の渡しのほとりにあり。玉淀ダムができるまでは深い渓谷沿いであったよし。

左手に分教場の碑や渡し跡の碑があります。ここから右手を見ると・・・

崖下にはダム湖の深緑が見える。

〇丹荘 ・・・ 武蔵七党の一・丹党の本拠地。鎌倉幕府御家人として安保氏を名乗る。

・阿保氏館跡 ・・・ 掘割などもあったよし。

このあたりが中心地だそうです。説明板、阿保氏の碑と愛宕祠あり。

この辺一帯が館跡のよし。左端の森は↓の阿保神社。

・阿保神社 ・・・ 式内・今城青八坂稲実神社(いまきあおやさかいなみの神社)の論社の一。

阿保氏館の北西端だったそうです。

神名を書いた五角柱がある。みか神社にもありました。

・今城青八坂稲実池上神社 ・・・ 式内・今城青八坂稲実神社(いまきあおやさかいなみいけがみの神社)の論社の一。明治まであった神宮寺は明治六年に廃寺になり、今は阿弥陀堂だけが遺る。

・塩川広平生地(並びに墓) ・・・ 塩川広平は幕末の尊攘志士、幕臣家臣であったが主家を離れ、岩倉具視に使われて江戸開城にも尽力、後、明治政府に仕う。明治20年ごろ亡くなったみたいなんですが、そのときの年齢が今のわたしぐらいなんだそうです。むかしのひとは偉いなあ。なお、お墓は東京の青山墓地にあるそうなんですが、生地の近くにも有志らが墓を建てた、と書いてありましたが、おそらく下の共同墓地のどこかにあったんだと思います。

左端に立っているのが「塩川広平生地並びに墓」の標柱。その右の門みたいなのは「なかよし公園入口」、その次の建物は不明。右側に鳥居があって、稲荷神社に登る。

・共同墓地等 ・・・ 征清戦の碑や戦死者の板碑がたくさんあった。戦死者の板碑ははじめ大正・昭和戦前のものかと思ったが、多くは昭和30年前後に第二次大戦の死者を記念してもので、立てているのはおやじやおふくろであった。

英霊たちの碑が並んでいます。

〇美里 ・・・ 遺跡の森公園とかあるんですが、休園中。

・𤭖(み)か神社 ・・・ 「か」の字は「菱+玉」と書きます。

酒壺を祀る神社です。むかしは正月にどぶろくを作っていたとのこと。神宝として土壺四個が伝世する。

近くに広木・大町古墳群があるらしいんですが、もう日が暮れてきたので帰ります。

 

 

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