フィールドワーク録21−3 (起:令和2年8月9日(土))  目次へ  令和2年3月14日〜へ

玄奘三蔵像。われもまた旅行く者なり。

8月9日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(写真類は今後)

牛久城内町。牛久城は中世末期、北条流の惣曲輪を持つ城郭だったので、曲輪内の町が「城内」という町名になっています。ただし農村です。

〇牛久城 ・・・ ナワバリ、空堀、土塁がよく遺る。ここも佐竹・北条の最前線(北条側)で、とうとう一度も落ちなかったという。なお付近に古墳や貝塚遺跡もあるみたいなんですが、暑いのと所用があるので、今回は省略。

大手門あと。惣曲輪の大手門なので、現在の城址とされる軍事上の城塞からは2キロぐらい離れている。今は農村です。

大手門から入って右手にある薬師堂。この中の薬師如来座像は伝行基作はともかくとして、定朝様式の平安末期の佳作。隙間から覗くとよく見えます。

だいぶん歩いてきました。ここが城址の入り口(三の丸あと)。ここ以外、地図とか遺構表記はないのでよくチェックしておきましょう。

空堀。よく出来ています。上がったところは本丸〜三の丸をつなぐ帯曲輪。

本丸と思われる平坦地。小さな祠があります。

〇小川芋銭記念館(雲魚亭) ・・・ 明治〜昭和の日本画家で、牛久沼などのカッパを描いたひとです。おやじが江戸詰め牛久藩士で、廃藩置県で失職して牛久城内に帰農。そのまま農民をやっていたんですが、30歳ぐらいから茨城新聞などの挿絵を描き、やがて日本画壇の重鎮となった。彼の住居兼アトリエ。肝冷斎もカッパ画師として後塵を拝しております。

雲魚亭。入場無料。

雲魚亭の裏にある牛久沼。ひとが泳いでます。この先に、天気によっては富士山が見えるそうです。おれももうすぐ隠棲だ。しかし、おれの隠棲は放浪のものとなるゆえ、こういうアトリエは無いんだろうなあ・・・。

 

8月10日(月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

山の日で休みなんで、また下館に泊まって調査を行う。

〇雨引観音 ・・・ 三十年ぶりに行ってみた。もっと山の中のような記憶があったんですが、道がよくなったのかも。大同年間に開山という。

カッコいい本堂です。修復中のようです。こて絵がすばらしい。

多宝塔脇から下界を見下ろす。平成初期に来たときも、こんな風景を見たような気もする。なんにせよ遠い昔だ。

〇雨引千勝神社 ・・・ 雨引観音の麓にあり。南北朝時代に楠木氏が祀ったという。

クスノキやカシのかっこいい木がたくさんあった。

〇稲田神社 ・・・ 式内大社。「大社」というのは式内社でも特別の扱いを受け、国家に事があるときには使者が立てられるのである。

高台にあって神々しい場所である。祭神・稲田姫神はもちろん出雲の奇稲田姫さま。出雲族の大地母神さまじゃ!

境内神の「てなづちのみこと」。おふくろの方だっけ。

こちらは「あしなづちのみこと」。おやじの方だっけ。

〇鴨大神御子神主玉神社 ・・・ 式内社。たいへん静謐ないい神社でした。鳥居がしめ縄。

鳥居がなくて、村に入るところにこのしめ縄があるのが「一の鳥居」と称される場所。これだけでも震えるぐらいかっこいい。夜来たら神威にシビレルよ。

短い石段ですが、実に神々しく、神域に入っていく雰囲気。

左手から上ってきます。この向きの背後にも鬱蒼たる森があり、「大杉さま」と信仰されている杉があるらしい。

桜川から笠間にかけては、新治(にいばり)国造の地だが、稲田神社はもちろん奇稲田姫を祀り、「カモ」は出雲族系の地名古語、常陸出雲社や大国玉村の存在など、出雲族が開墾した地なのであろう。

〇葦間山古墳 ・・・ 小貝川流域の首長古墳最大のもの。前方後円墳と聞いていましたが、現状ではほとんど円墳状態。

この小道を登ると後円部頂に祠がある。左手の方が本来前方部か。

8月16日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

古河周辺。

〇野木大塚古墳 … 方墳。御門古墳群といい、周囲にもとはあと四つ(今は三つ)の古墳があるという。

ヤギやニワトリがいました。

〇毘沙門古墳 ・・・ 寒川古墳群があったそうですが、今ではこの古墳のみ。5世紀のもの。

これだけが遺っているんです。古墳時代から開発された農業適地のため早くから多くの古墳が滅失したそうです。

〇山王寺大枡塚古墳 ・・・ 前方後方墳。5世紀初のものという。

〇金山塚古墳 ・・・ 上円下方墳らしいんですが、かなり削平されています。

〇篠山貝塚 ・・・ 戦後すぐに掘られた縄文貝塚。古江戸湾最奥部として名高い。

このへんから貝とか出たようです。

〇栃木市藤岡民俗資料館 ・・・ 川漁や谷中関係など。大正の大横綱・栃木山関係資料も。勝率において双葉山にまさったという。「不撓不屈」です。

〇頼母子横穴群 ・・・ 頼母子は地名。七世紀の横穴墓群。

フェンスがあって入れないので、残念ながら横穴に転がって涼んでいくわけにはいかない。

〇長谷観音 ・・・ 古河公方が鎌倉から勧請した日本三大長谷観音の一だそうです(三大長谷観音の三つめは他にもありますが)。壮大な伽藍があったようですが、廃仏毀釈で廃寺となり、復興。

おみくじ助かりました。よかった。

〇古河歴史館 ・・・ 鷹見泉石関係など見所多い。また来ます。大塩平八郎を討ち取った(自殺させた)現場責任者は当時大阪城代の土井利位の家老・鷹見だったんですね。

8月19日(水)・・・・・・・・・・・・・・・・

生霊さまよう感じで都内をさまよう。実体がどこにいたかは証拠はありませんぞ。なお、葛飾区星と郷土の博物館は、プラネタリウムの予約入場はあるようですが、展示室は改装中とのこと。

〇足立区郷土博物館 ・・・ 近代の工場関係がおもしろかったです。千住のオバケ煙突が建設されたのは大正15年、解体されたのは昭和39年だそうです。

裏庭がすばらしい。

バスと電車で亀有を経て白川清澄へ。

〇東京現代美術館 ・・・ いろいろヒントがもらえるので好きな場所なんですが、改装に入ってからずっと行ってませんでした。昨年再開したのは知っていたのですが、やきうとか古墳とかいろいろ忙しくて、やっと行けましたんじゃ。

威圧的な感じさえする。

そのあと生霊的にこちらへさまよう。

8月23日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こちらのついでに潮来・稲敷をさまよう。(写真は今後)

〇水郷・白鳥の里 ・・・ 北浦に面したすばらしい場所です。余生はここで送るか。

こんな堤の上を毎朝歩いてみたいものじゃ。

〇大生 ・・・ 大和の「意富」(おふ)氏が鹿島神社と移住した地といわれる。「水郷・風土記の里」です。

・大生神社 ・・・ ここが元鹿島神宮であったともいう。大同年間創建といわれ、森がすばらしい。

この神社には巫女舞神事があって、毎年11月になると7歳から13歳までの女子のいる氏子の家に、夜中予告せずに神社側がしめ縄を張るのだそうで、張られた家の少女が巫女となって、一か月程度の訓練の上、巫女舞を奉納するという。おそらく原初の形はもっと残酷な人身御供的なものであったのだろうなあ、にやにや。

・大生古墳群 ・・・ 5〜6世紀のがたくさんあるんです。大生(おふ)氏の首長のものであろうという。今日チェックしたのだけでも、白幡八幡塚、子子前塚(まごまいつか)、鹿見塚(ししみつか)など多数。

鹿見塚。前方後円墳である。

子子前塚。円墳です。碑の背後の茂み。

・大生殿神社 ・・・ 中世、平氏一門の大生氏がこの地を支配し、その子孫が江戸期も続いていたそうです。大生氏の氏神。

〇島崎城 ・・・ 行方平氏七族の一、島崎氏が中世期に拠った城。小田原攻めのあとの1591年に佐竹に落とされた。したがって、中世→近世の城郭。

郭跡がはっきり残っていて面白いのですが、蚊が多い。

水堀跡。このあたりから左手に中世末期には城下町が構成されていたようである。

三の丸(右側)、二の丸間の空堀。

二の丸から本丸に向かう虎口。ここで転ぶ。冒険歴史民俗学者としては、わしはもう年を取り過ぎたのじゃが、後継者がいないので老体に鞭打ってのう。

本丸水曲輪の大井戸あと。ほんとよく遺っています。

〇浅間神社古墳 ・・・ 古代の霞ヶ浦航行船舶の目印になったという古墳。葺石に覆われていた「見せる古墳」の典型といえましょう。四世紀のバチ型古墳で、茨城県では最古のものという。近世は浅間さんとして信仰され、ここから富士山が見えたそうです。付近の地名「大塚」は「王塚」の訛伝という。

墳頂部から現在の常陸利根川を見下ろす。なお、案内板には、バチ型古墳は「前方後方円墳ともいわれ、一段劣ったもの」と書いてあり、前方後円墳の先駆形式ということがいいたいのだと思うのですが、優劣観念を重視する歴史観に久しぶりで遭遇し新鮮な感じさえした。

〇稲敷

・稲敷市郷土民俗資料館 ・・・ 統合前の東町の資料館らしく、東町関係の展示が多い。幕末の横綱・稲妻雷五郎の銅像あり。

資料館(図書館と併設)。立っているのが江戸の方を見つめる稲妻雷五郎像。文武に優れ、松江藩士に取り立てられた。

・あんばさま(大杉神社) ・・・ 近世初期に天海僧正が住持。江戸に天狗を遣わし、疱瘡避け等に霊験あらたかな神社として名高いので、一度は来てみようと思っていたんで来ました。

下総の日光といわれるとおり、社殿のきらびやかなのはすばらしかった。三郎杉しか見つけられませんでした。なお、天海僧正は明智光秀ではなく織田信長だと書いてありました。

「あんばさま」というのは、鎮座の場が「阿波」村で、これを「あんば」と読んだ、というのが通説ですが、江戸で「悪魔祓え」をしたので、これがなまって「あんば」になったのだ、ともいいます。

きらびやかである。禹歩もできるし、悪縁切りや人形(ひとがた)護摩もあるし、天台密教のテーマパーク的な場所である。

二十四孝も勉強できます。

〇浮島 ・・・ 常陸国風土記では島とされ、中世に「浮島城」があった土地。姫宮神社付近が浮島城の遺構とされる。

この丘が姫宮神社。このあたりが城郭であったのであろう。なお、付近には「茨城百景 夢の浮橋」の碑があり、近年まで島のような景観を留めていたのだろうと思われる。この村は現在愛読中の昭和48年「日本の民俗」シリーズ「茨城」にも出てきます。

8月30日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

またまた所用で茨城県へ。鹿島を少し調べました。暑かった。写真は後程。

〇鹿島神宮 ・・・ 十年以上来てなかったような気がしますので来てみた。東日本震災で鳥居が壊れたのを覚えてないので、震災前にしか来ていないのだと思います。

・楼門 ・・・ 秀忠さまに造ってもらった。

きれいですね。

・奥の宮 ・・・ 秀忠さまに造ってもらった。

・要石

・御手洗(みたらし)池

・大助人形 ・・・ 秋田の「鹿島さま」、福島の「お人形さま」とも関係深いとされる茨城の民俗人形である。ちょうど鹿島神宮内に展示されていた。

昼間でもそこそこ不気味なので、夜中に見たら恐怖のため白髪になるかも知れません。

〇塚原卜伝生誕地

塚原卜伝といえば「鍋のふた」であるが、晩年の事件らしいので、ここではなく2キロほど離れた塚原城でのエピソードであるらしい。卜伝は出羽から筑紫まで、各地を経めぐっており、京都、近江、伊勢での事績も多いが、鹿島神官の子で豪族の養子なので、れっきとした実在人物である。

〇鹿島城跡 ・・・ 鎌倉時代、国香流平氏の鹿島氏の根拠地だったそうですが、16世紀には佐竹と争っていたそうです。塚原卜伝もここの関係者。

遠くに北浦が見えています。

〇鎌足神社 ・・・ 藤原鎌足誕生地伝説の一つ。「大鏡」によるとおやじの中臣御食子が鹿島宮司に赴任中に生まれたという。

「鎌足公旧宅址」の碑がある。

〇根本寺 ・・・ 鹿島氏の菩提寺。卜伝の墓もこのへんみたいですが発見できず。

〇宮中野古墳群 ・・・ 6世紀〜7世紀の古墳で、先週の大生古墳群の続きのようでもあるが、違うようでもあります。

・夫婦塚古墳 ・・・ 墳長100メートルを超える前方後円墳。先週の「鹿見塚」古墳に形態が類似するという。

これは後円部の墳頂。確かに平坦部がなく、鹿見塚と同じ形式である。

9月6日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・

9月になりました。鎌ヶ谷のチケット買ってあったが鎌ヶ谷まで来たら中止になったので、以前から行こうと思っていた本佐倉城址に行くことにした。(鎌ヶ谷以外、戸田も鴻巣も神宮もやれているので失敗した感がある・・・が、今年は観タマにノルマがかかっていないので、どうでもいいやー)

〇本佐倉城 ・・・ 15世紀から16世紀末にかけての千葉本宗家の本拠地。国指定史跡である。千葉本宗は後北条と同盟・姻戚となり、後北条とともに滅びた。

こちらが正面側。黒い建物の向こうに駐車場があるんですが、以前はこれが見つからずに断念した。今回は電車→徒歩のため裏側から入ってしまい大失敗。ここから昇って、W郭と名づけられている郭→倉跡→奥の山(千葉本宗家の儀礼が行われた場所らしい)→城山(城主の居館を兼ねた本丸)に昇れる。左側の尾根の上が城山である。セッテイ郭というのもあるのですが、ルートが違います。なお、「セッテイ」は「接待」で「人質郭」であろうとのこと。

「奥の山」。この左手の方に妙見宮跡の基壇があり、そこが各種儀礼の場であったという。中世の城だから、霊的な場でもあったのだ。

「城山」。あまり大きくない居館のほか、寄り合い所、池(枯山水)、築山、茶室、便所らしきもの、やぐらなどが確認されています。

天然土塁である「東山」から城の北側を見下ろす。横に京成線が走っているんですが、その向こうまで近世は印旛沼で、そこからこちらは湿地帯だったそうですから、こちら側は難攻であったろうと思われます。

〇八幡社 ・・・ 本佐倉城の南西にある神社です。150年前、というので明治初めごろの鎮座と思われます。

参道が長いので以前から気になってました。

〇将門町 ・・・ 千葉氏が将門神社を祀り、口の宮を江戸時代に入った堀田氏が建てたという。一帯は農村ですが、「将門町」との字名が遺る。

口の宮将門神社。前回はここまで来て雨がひどいし暗くなってきてコワくなって帰りました。

桔梗塚(奥の宮)。桔梗御前は将門さまの愛妾あるいは正妻ですが、秀郷さまに将門さま情報を売ったため、将門さまのお怒りでこの地の桔梗は花が咲かぬ、とも、将門さまへの愛で花を咲かせぬ、のだとも言います。いずれにせよ、「鳥居」や「社屋」を持たない姿は、中世聖地の本来の姿なのであろう。

〇山崎町 ・・・ 京成佐倉駅の北側の丘陵にある遺跡をチェック。

天神前遺跡。公園になっていますが、耕作中に土器が出てきて調査が入り、弥生中期の洗骨・再葬墓遺跡として、関東で初めて発見された。

山崎ひょうたん塚古墳。天神前古墳から西に100メートルほどのところにあります。丘陵の南端に築かれた前方後円墳で、かつては近くに円墳があって「夫婦塚」と呼ばれていたそうです。この向こう側は斜面になって、旧印旛沼になるので、沼から見上げることのできる古墳であったことがわかります。

9月13日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

所用ついでに、また古河を調査。今回は国際なんとか賞を取っている「古河公方公園」へ。

〇鴻巣館 ・・・ 足利成氏以降5代の公方の居館跡。御所沼に突き出した半島にあった。御所沼は戦後一度干拓されたが、昭和末に再度沼に戻され、その後公園化。近世古河城が渡良瀬川治水のためにほとんどその原型をとどめないの比して、こちらは土塁・空堀も遺存している。

鴻巣館跡碑。この裏側に空堀、土塁が認められる。

御所沼です。もとヒトデ型をしていたので「星湖」と雅称せらる。左側の半島部が「御所」(鴻巣館)。

〇徳源院跡 ・・・ 徳源院さまは成氏以降第五代の義氏の娘で家督であった氏女(うじひめ)さまの院号。徳源院さま、その子で榊原康政の婿となった義親さま、別の墓所から一部持ってきたらしい義氏さまの墓標があります。

そのほかにも墓石がたくさんあります。近くに長塚節の歌碑もある。

〇御所塚(松月院跡) ・・・ 中世古河城は、成氏さまが鎌倉のいろんなものを持ってきたので、非常に広大な寺域を持つ寺院が三つあったという。その一が上の徳源院、二つ目がここで、もう一つは忘れました。すべて廃寺となっている。

ここに遺された墓標の一には「源氏車」の紋が入っているので、義親さまの妻となった榊原康政女の墓かという。

そのほか、民家園もあり、芝生も気持ちいいし、かき氷も美味かった。古河は近世宿場の調査も必要であり、総鎮守・雀神社、頼政神社の参詣もしていないのでまた来ないといけないんです。

公園内の「筑波見の丘」でしばらくごろごろして雲の行くのを見ていたのだ。少しは晴れた気分だが、明日からまた・・・。

9月22日(火)秋分の日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

多忙な所用のあいまを縫って調査である。

〇二宮赤城神社 ・・・ 平地にある方の赤城神社である。日本武尊が来たときに泊まった場所らしい。山にあるのと合わせて式内社。山の方は去年か一昨年に行ったので、これでやっとセットでおまいりできました。

近所の親子とかばばあとかおまいりしていて、鎮守さまっぽい雰囲気もあります。

境内。周囲に土塁が確認できるなど、中世神社の状態がわかる。おみくじ引いたら、ずばりと悩みに答えてくれるすばらしい内容。ありがたいです。ほんとうに。

神社近くの民家内にある前橋市指定文化財「石殿」。観音菩薩が祀られているらしい。

〇産泰神社 ・・・ 安産の神社になっていますが、おそらく「山胎」ではないかと思います。

山門や拝殿の江戸末期の彫刻がヤバいぐらいすばらしい。県指定。

正殿裏の「胎内くぐり」「七福神石」。おそらくもとは磐座で、これを祀る神社だったのであろう。

〇大室古墳群 ・・・ 「古墳県」群馬の中でも、保渡田とともに名高い古墳公園。なにしろJRさまのCMのためにY永小百合さまが訪れておられるので、中高年夫婦が来るのである。

・前二子(まえふたご)古墳 ・・・ 6世紀前半の前方後円墳。

この古墳群の最初の首長墓と考えられる。

Y永さまがCМで入られたご墓穴。これを目指して来るらしいです。テレビ見てないんで知らんけど。

・中二子(なかふたご)古墳 ・・・ 6世紀中ごろの前方後円墳。一番でかい。周溝もでかい。

左手が前方部、右手が後円部になります。内側の周溝の外の土手にハニワが並べられていました。なおこの道をY永さまがお歩きになっているシーンもあるよしで、「あ、ここだ、ここだ」とみなさんおっしゃってました。

・後二子(うしろふたご)古墳 ・・・ 6世紀後半の前方後円墳。

この横穴も入れますが、横穴部が低いのが特徴だそうです。それは盛り土部の節約のためだ、という解説になってるのですが、ほんとうかなあ。節約するぐらいなら、そもそもこんなもの作らなければいいのではないか。この横穴の周囲に土器が多数出土し、実際に煮炊きした跡があるそうで、死者葬祭儀礼に使われた、と説明されていました。(民家園内の「はにわ館」の3D解説による)

・小二子(こふたご)古墳 ・・・ 後二子と同時に造られ、同じ方向を向いていることから、関係の深いひとが葬られた、ということになっています。

この古墳には大量のハニワが並べられていた。前方部にはヒト型やウマ型のハニワ、後円部にはイエ型や器形ハニワが多いとのこと。されば中二子との関係はこちらが司祭の側だったのでは?

M-1墳墓 ・・・ そういう名前の6世紀終わりごろの「帆立貝型」古墳。

だいぶ小さいんで首長墓といえるがどうかわかりませんが、これが一連の古墳群の最後になるようです。後ろの方の高台からは集落遺跡、前二子方面の公園管理事務所近くには豪族館跡も出ています。

公園は広く、一周するのに疲れた。民家園・はにわ館のほか、池もあります。左手に見えるのは赤城山。

〇伊勢崎市赤崎歴史資料館 ・・・ 前橋から結城にいく行きがけの駄賃的に見学。伊勢崎市のお富士山古墳や、田原藤太墓所も調査したいところ。

ハニワ類のほか、毒島城址から出たという「毒臼」もあります。

明日からは闇が続く・・・だが、いつか明るい世界に出られるだろう・・・

と希望を述べて本日は終わり。(大室古墳群前二子古墳石室)

9月27日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

所用の前に吉身町で式内社三連打。延喜式制定時期(10世紀初め)の前ぐらいの時代、このたりが重要な開墾地だったのであろう。さきたま古墳群も遠くはありません。

〇高負彦根(たかおひこね)神社 ・・・ 一番古いらしい。神体山(磐座)がポンポン山(玉ほこ山)。

〇伊波比(いわい)神社 

〇横見神社

〇岩殿山安楽寺(吉見観音) ・・・ 奈良時代、行基ボサツ開基と伝わります。蒲の冠者・源範頼の本拠地で、「御所」地名もあり。範頼さまの建てた豪壮な伽藍は北条・上杉の松山城の戦いの時に焼失。現在の建物は江戸初期のものとのことです。三重塔かっこいい。本堂には胎内くぐりとかもできるようですが、今日はお堂に入れないようです。

〇八丁湖・黒岩横穴墓穴群 ・・・ 発掘されているのは十八穴だそうですが、現在500ぐらいの横穴が確認されており、吉見百穴より多い、と書いてありました。

(写真等は明日以降)

ここまで粘ってきたが、明日からはほんとうに闇が続くことになるのである。

 

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