フィールドワーク録20−2 (起:令和元年5月1日(水)) 目次へ 平成31年1月〜4月へ
サボテンのように粘り強く生きよう。
5月1日(水) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天皇陛下御即位おめでとうございます。本日はよみうりランド近くにある中世城郭・小澤城へ。
鎌倉幕府開幕以降、小田原北条氏滅亡まで、中世関東史に名高い名城です。数次にわたる分倍河原合戦や武田・北条の三増合戦に、つねに南関東側の基軸城郭と位置付けられ、その都度難攻不落を誇りました。当時は北側斜面の麓まで多摩川が迫っていたそうです。
中央のふくらみのあたりに「小沢城跡」の碑が建っています。ただし城郭としてはこのあたりはもうはずれだったのでは・・・。
馬場あととされる平たん部。周囲は切り立った崖である。
黄色いところが城郭部。青い線は空堀あと。赤は現在の通路。上の上の写真はこの写真の左の外側ぐらい、上の写真は中央少し右のまわりが白くなった舌状の部分です。
5月2日(木)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あれ?ここはどこや?
〇福岡市の今宿古墳群です。周船寺周辺に前方後円墳が12ぐらいあるらしいんですが、そのうち七つが国指定史跡になっています。そのうち六つまで歩いて回ってきたんです。
〇宮崎安貞書斎 ・・・ 江戸時代の農学者の方です。宮崎市定さんの方ではありません。
5月3日(金)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇原田・五郎丸古墳、筑紫神社
以下、続報を待て。
5月12日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
多忙なる時間を割いて、フィールドワークだ。人生の目的を昨日また一つ失ったし。
〇湯島聖堂へ。
人が多かった。「宥座の器」のでかいのが出来てました。
〇野田市縄文遺跡
このあたり古東京湾からの入り江が台地の間に入り組んでいたということで、縄文遺跡があちこちにあります。新橋台U遺跡。
こちらは西金橋遺跡。上の畑地に竪穴住居複数が発見されたという。
ここでは石器類が尊敬されていることが判明する。野田市教育委員会が建てた標識なんですが・・・。
5月19日(日)・・・・・・・・・・・・・・・
昼間は新宿区の漱石山房記念館に行ってみた。
夏目漱石終焉の地です。生誕の地は近くに別にあります。
空襲で焼失した漱石山房の書斎を復元したものだそうです。なお蔵書類は東北大学が持っているとのことで、何故かと思ったら戦中、東北大の学長だった小宮豊隆が引き取ったので戦災を免れたという。
そのほか、奧さんとの関係、コドモとの関係、弟子たちの人間像など、あんまり美談でないものを曖昧模糊にいい感じにして解説されていた。裏に「猫塚」あり。
6月1日(土)・・・・・・・・・・・・・・・
多忙なる観タマの合間を縫って、横須賀へ。
〇夏島貝塚 ・・・ かつての景勝地、伊藤博文の別荘もあった夏島で、戦後すぐに明治大学が発掘調査したら、縄文早期の貝塚が発見され、出土した穀物などを当時の最新技法であった炭素年代測定にかけたところ、「9500年前」という測定値が出てしまい、大きな問題になった。今でこそ縄文時代は一万年以上前、人類文明は数万年、は当たり前ですが、当時は文明ができたのは紀元前3000年で、日本の文明は四大文明からの影響で作られたはず、だったので、困ってしまったらしいんです。
夏島。右の隅の白いものが「大日本帝国憲法草案起草の地」の碑。ああ、縄文時代史や憲法は塗り替わっても、「日本国憲法九条」だけは不磨の大典なのだという・・・。
こんなのです。大正時代に伊藤巳代治らが発起人となって作られた。敷石の数が憲法の条数と同じ、とかいろいろ凝っているみたいです。
6月15日(土)・・・・・・・・・・
仙台中止らしいんで、今日は午後まで東京で時間つぶしや。
〇東京国立博物館 ・・・ 特別展も無いので本館の常設展をじっくり見て来ました。とはいえ体調悪いのでなんどもソファーで寝てしまう。
これはなんじゃ? 密教コーナーにあった父母仏合体像です。この二仏の接合より多数の仏が生み出されるのじゃ!制作場所はわからないそうですが、チベット中部か、とのこと。ここは大抵のものが写真撮影可なのでついつい撮ってしまう。
右側がアイヌ刀である。かっこいい。この間、アイヌの妖刀イペタムについて調べていたのだが文献ではその大きさとか質感とかイメージできないが、実物みるとなるほど、と思えますね。さらに手にすることが出来たら・・・切れ味が試せたら・・・ひっひっひ・・・(奥の方は儀礼用の「へら」)
考古学コーナー。最大銅鐸美しい。近くに銅鐸の見本があって「鳴らしてみましょう」と書いてあるので、外人のコドモに鳴らせ方教えたらオモシロがって鳴らしまくってました。
〇東京都美術館 ・・・クリムト展というのをやっているというので行ってみました。1600円とはツラいが・・・。「クリムト」とか「ウィーン分離派」とか「エゴンシーレ」とか、かっこいいコトバを三十年以上前にアヴァンギャルドがなんたらかんたらという本で読んだ記憶がありました。生涯結婚してないがコドモは11人(14人かも)確認され「子どもたちやその母となった女性との関係がクリムトに生死を見つめさせその作品への」なんやらかんやらとか、心の支えになった女性(弟のヨメの妹)とは「プラトニックな関係だったとされていますが近年の研究では一時期深い関係にあったようです」(原文ママ)なにやらかんやらという(事実ではなく)説明の表現の仕方が、いかにも意識の高いひとが好きな芸術家であることを現わしているなあ、としみじみ思いました。わたしもすばらしいと思いますヨ。意識高くないけど。昔読んだ本ではもともと芸術家ではなく職人上がり、凋落したオーストリアを棄てなかったひと、という記憶があって好意的な感情を抱いたのですが、クリムトというのは職人三兄弟なんですね。また第一次大戦終結直前に亡くなったこともわかりました。実際足を運んでみると勉強になるなあ。
ここで写真が撮れるみたいです。みんな意識高そうやなあ。
〇日本工芸会展 ・・・ これはオモシロい。800円はいたかったが。
ときどき本人か知合いか関係無いひとか知りませんが、解説している人がいて、目とか動きとか芸術的で面白い。来年の案内をもらうことになりました。
6月16日(日)・・・・・・・・・・・・・
仙台市内のホテルは高すぎるので、名取市内に宿泊。ついでに「古墳の町・名取」が誇る古墳の一部を調査した。
〇飯野坂古墳群・・・薬師堂、宮山、観音堂、山居、山居北の五つの前方後方墳を中心とする古墳群。飯野坂高地にほぼ東西に(薬師堂が一番東)並んでいるが、時代的には観音堂→宮山→薬師堂→山居→山居北とされ、3〜4世紀の当地の地域首長(まだ国造にもなっていない時代である)の歴代の墓と考えられております。今は海岸線から離れているのですが、往時は太平洋からも見上げられたのではないかと思います。全国的にもこの時期の前方後方墳が五つ並んでいる例は珍しい(昨年調査した那須でもそこそこ離れている)ことから国指定史跡となって住宅地でもそのまま遺っています。
今回のコレクションを時代順に並べてみます。
観音堂古墳。観音堂があり、夜はコワいと思われる。
宮山古墳。付近は古い公営住宅みたいで、立ち退きさせてあるようで、誰もいません。夕方以降はかなりコワいと思われます。
薬師堂古墳。ここに上がる途中の狛犬とか、かなり宇宙人的なのもありちょっと他で観られない。製作者の感性とかホントにコワいと思います。
山居古墳。このあたりは普通に住宅街なので、そんなに怖くないと思いますよ。
山居北古墳。これも小さいしコワくないと思います。さすがに深夜はコワいか。
〇雷神山古墳及び小塚古墳 ・・・ 東北最大の前方後円墳・雷神山に到達。時期的には飯野坂の五つの前方後方墳のあとの5世紀当初に、大和発祥に優れた土木技術を使って丘陵上に作られた均整の取れた古墳であられる。埋葬者が飯野坂の方々の系列なのか、それらを統合した方なのか、大和からお見えになったお偉い方なのか、など全くわかりません。小塚古墳(円墳)が並んで作られており、合わせて国指定史跡であられる。
雷神山古墳。花見の名所らしいんですが、雨でほかに誰もおらず、こんなところで刃物や拳銃持ったやつに遇ったらコワい。
後円部墳頂に上がってみる。雷神の祠がある。ここは東北の「いかづちの丘」なのだ。
小塚古墳です。雷神山古墳とほぼ同時代とされる円墳で、円墳としては東北最大級という。被葬者、雷神山古墳との関係など不明ですが、陪冢としてはデカすぎる。
雨も降っていたし、雷神山の草原を歩いたせいでズボンの股から下がずぶ濡れやで。普通の人なら乾かしたいところですが、旅の修行者ゆえ許されぬ。次の務めに向かう。
6月23日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
自己への不信に悩みつつ、船橋市内中近世遺跡を経めぐる。
〇金杉城址 ・・・ 総合運動場裏から見えます。中世城郭らしいのですが、私有地で入れません。
土塁などの遺構ありという。
〇夏見城址 ・・・ このお寺のあたりが夏見城といわれる中世城郭あとらしい。
長信寺さんです。裏手にお墓があってその向こうに崖地があるみたいで、そこまで行くと土塁跡があるようなんですが。
〇船橋城址 ・・・ 有名な海老川の岸辺にあった中世城郭です。このあたりに船橋があって、そこで通行税をとってたんだと思いますが、その船橋が地名になったのである。
海老川は、古代から中世にかけて船橋一帯にあった伊勢神宮領「夏見廚」(なつみのくりや)を流れる川で、近世までは船橋大神宮付近で海に流れ込み、江戸湾内海の海陸交通をつなぐ要衝であった。現在は河川整備がされて小さな都市河川になっております。
〇船橋大神宮 ・・・ というわけでここまで海老川を下って来ました。船橋大神宮は式内「意富比神社」(おほひ神社)で、ヤマトタケル伝説、景行天皇の行幸伝説があり、この地が古代から重要な港湾であったことの証左でもある。古来伊勢神宮領とされ、従って「意富比神社」の祭神も天照大神。源頼家以来清和源氏の尊崇も高く、江戸期には東照宮もあり、伊勢にも日光にも行けない者も、ここに参れば同じ効果があるとされたのである。
東照宮があってしかも交通の要衝なので、戊辰の船橋戦争で官軍の攻撃の的となり、近世の葵と菊の御紋の並んだ壮麗な社殿は焼け落ちたのである。
境内山上には江戸期に江戸内海交通を支えた常夜灯があったが、戊辰戦役で焼失。明治13年、有志により「燈明台」が建てられ、現在まで遺る。登録有形文化財です。
〇船橋御殿 ・・・ 東金街道沿いにあって、幕府の軍事施設(平時は鷹狩時のご宿所)として家康時代に設けられた。1630年を最後に使用されることなく、宮司の富(とみ)氏に下げ渡され、その後農地、現在は住宅地や繁華街となっておる。
このあたりから船橋御殿だったそうです。「東京ドームより広かった」と書いてありました。東京ドームは容積でも面積でもあちこちで比較対象になっています。大したものですね。左側は御蔵稲荷です。おねいさんの銅像が立っている場所は公園になっていて、昭和30年代までここに船橋市役所があったのだそうです。
これは富氏が大御所さまの御恩を記念して建てた東照宮。ちょうどこのあたりが御殿の中心だったらしい。路地の奧にあって「日本一小さい東照宮」と看板がありました。今も「徳川家康公・秀忠公に感謝します」との立て札があった。
いろいろ回っているうちに反省もできまして、これからは治療情報も集めることにしました。
7月14日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明日も休みたいのになあ。と思いつつ、今日の調査結果。
〇伊勢市楠部
・橡樟尾(かすお)神社
楠部の産土社である。
・式内・大土御祖(おおつちみおや)神社
・式内・国津御祖(くにつみおや)神社
・神宮神田
・韓神山
大正年間の近鉄鳥羽線の敷設工事で失われたと言われるが、かつて荒木田氏の墓所(風葬地)であったともいわれる。
〇松阪市木造
・木造城跡
南北朝期からの名城で中世末にはこれより北の松ケ崎とともに、城下町を抱えた城郭であったが、天正十二年の織田・羽柴戦争の敗北による木造氏滅亡とともに廃城となる。ナワバリ等すべて水田に没したが、昭和42年に、推定地の盛り土の上に「木造城址」の碑を建ててある。
・木造神社
・式内・物部神社
〇亀山市関宿
すばらしく景観保存がなされていました。
〇四日市市「うみてらす14」
14階から四日市臨海コンビナートを見下ろす。日が沈むと工場夜景がすばらしいらしい。
7月18日(木)・・・・・・・・・・・・・・
今日は午前中、京都市内で所用を果たして、ちゃんと職場に休暇も取ってあるので堂々と観光である。50年ぶりで平等院に行ってみるでー。
・・・と思ったら、JR奈良線伏見駅近くですごい放火事件が起こってオフィスが燃えているとのこと。電車の中で他の客が「あれやわ」「よう燃えてはるわ」と見てはるのでわしも見た。まだようけ心肺停止のひとが建物の中にいるらしい・・・。
〇平等院鳳凰堂 ・・・ 工事中で中には入れないそうですが、鳳翔館というミュージアム施設があるので壁画や雲中供養菩薩の複製などが見られてよかった。現代となっては「そんなの当たり前よ!日本美術ステキ!」とみなさん言うでしょうが、50年前のおいら肝冷童子は「雲中供養菩薩」のファンで、足の挙げ方とか真似していたのだ。当時はすごいマニアックなことだったんですよ!
信じられないと思いますが、50年前におやじと来たころは、あの中の国宝の障壁画に触れたんですよ。そのときの手触りを思い出した。あれから長い長い月日が経っているのだなあ。
左下の十円玉と比べてみる。はちすばの濁りに染まぬこころもてなどあかがねの銭の臭いぞ。
これは今回はじめて見ました。かっこいい救世船乗菩薩さま。背後には阿弥陀様も。ああ、間もなくおいらも救ってくださるんよね!
雨に濡れながら宇治川を渡り、たどりついた源氏物語ミュージアムだが、時間切れであった。途中市営茶室でお茶席いただいてましたからね。
線刻阿弥陀如来。この石に表面、阿弥陀様、左側面に勢至菩薩、右に観音菩薩の線刻があり、平安時代のものと推定されている。
ここから、黄檗山万福寺(もちろん時間切れで入山できず)まで歩いてみました。かなり雨が強く傘無しなので普通のひとなら〇チ〇イ沙汰ですが、わしはちゃんと休暇取っておるのじゃからな!何をしても自由なのじゃ、ひいっひっひっひっひっひい!
7月28日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
多忙な激務の合間を活用して、所沢市の
〇狭山不動尊へ
この山門は奈良の山中から移されたもので、もと天誅組の本部があったんだそうです。左手に屋根が見えるのは羅漢堂で、井上馨が明治天皇・皇后、他の元勲や財閥からお金を集めて都内に作ったものを持ってきました。
かっこいい多宝塔が二つもあります。これは第二多宝塔と書かれていました。室町期のもので播磨にあったのを持ってきたそうです。
これは芝の台徳院(秀忠さま)廟所の「御成門」を移転したもの。「国宝」だそうです。確かに壮麗でかっこいい。
他にもカッコいい歴史的建造物が集められていて、しかも入場無料なので一見の価値あり。ただし三時半までなので、デーゲーム終わってからでは見られません。
〇山口観音 ・・・ 拝んできました。
8月4日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ナゴヤ厭世ついでに、話題になっていた「トリエンナーレ愛知」開催中の愛知県美術館に行ってみました。話題になっていた反日展示は本日から中止になってしまっていましたが、他のも現代芸術だからツラいなあ。
会場があちこちにあるんです。そのうちの一室が「表現の不自由展」で、反日としか言いようのない展示があったそうですが、安全のため今日から中止(←マスコミ労働組合は「事実上の検閲」と言っているそうですが、脅迫した私人に言っている?)。・・・「親日」?で不自由だったやつも見せていればまだしもですがね。
ピエロ(の人形)が多数転がっているコレなんかよかったけどなあ。
テレビ塔前広場で「ワールド・コスプレ・サミット」開催中。キャラが申し訳ないがほぼわかりません。唯一わかったのが横山「三国志」の関羽であったのじゃ。
8月12日(月)〜13日(火)・・・・・・・・・・・・・・・・
古墳マニア垂涎の地、栃木県壬生町などを大調査。
〇下野国庁跡・記念館 ・・・ 記念館勉強になった。正庁は宮野辺神社の社叢あたりで発掘されておらず、前庁が復元されている。
熱中してきていたので、木陰は気持ちよかった。正面が復原前庁。
〇下野風土記の丘資料館・天平の丘公園
公園内のあずまやでご休憩中のにゃんにゃんさま。えさが置かれていたので地域の方々がお世話しているようだが、公園内にはあちこちに「ノラ猫に餌をやらないでください」の立て札があり、弾圧されているようである。
〇下野国分寺・国分尼寺跡、甲塚古墳、オトカ塚古墳、伝・紫式部墓
国分寺跡。すぐ近くに甲塚古墳あり。
伝・紫式部墓。実際には鎌倉期の五輪塔らしい。このあたりの地名を「紫」といいしより式部の墓と伝えられたるとのこと。
〇摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳・資料館 ・・・ 摩利支天塚5世紀末〜6世紀初、琵琶塚6世紀前半の前方後円墳。付近は飯塚古墳群。
摩利支天塚古墳。前方部(剣菱型という特殊な形をしている)から昇って、もう一回階段を昇った後円部にお堂がある。
琵琶塚古墳。江戸時代から有名だったそうで、大正期には国指定史跡となった。
琵琶塚古墳後円部より前方部を望む。左手に摩利支天塚が見えるがこの写真では見えてません。
両古墳及び周辺の飯塚古墳群からは厖大な量のハニーたちが出ています。これは有名な形象埴輪群で、一番右の「首長」に対して、琴を弾く女子や踊り子、武人らが何やらお仕えしておられる。
〇壬生城本丸跡、精忠神社・畳塚、壬生町郷土資料館 ・・・ 壬生城は室町期の壬生氏の本拠、小田原攻めで没落、18世紀初に鳥居氏が入る。畳塚は鳥居元忠自刃の畳を埋めるという。郷土資料館には「宥座の器」があった。鳥居家は近江水口藩主時代以来、伊藤仁斎・東涯との関係が深いという。
壬生城はもともと土塁と堀、本丸に屋敷、という構造。本丸曲輪の土塁・掘割が遺る。本丸内の噴水などいかにも小侯国の風情があった。
郷土資料館蔵、今回断念した富士山塚古墳から出た、日本最大の家形ハニワ。(右二つ)。赤白の彩色がなされていたんですよ。
ほかにも形象埴輪の数々が。
ここも明治天皇が行幸されています。
〇壬生愛宕塚古墳、車塚古墳、牛塚古墳 ・・・ 車塚は栃木県内最大の円墳なり。石室が開口していて入れる。
愛宕塚古墳。17世紀のとのさまが城下のウシトラ鬼門に当たる、として愛宕神社を祀ってくれましたので、周溝まで含めて墳形がきれいに遺りました。
車塚古墳。六世紀の円墳で、国指定史跡。中央に石室開口部が見えます。
石室。このころかなり熱中していたので、中に入って涼ませてもらう。石室内の緑色の顔料が不思議というか不気味であった。夜中行ったら恐怖のため白髪化すると思われる。
〇吾妻古墳 ・・・ 県下最大の前方後円墳。国指定史跡。森の中にあり、御嶽っぽい。
工場地域の中に遺された深い森となっており、夜中に行ったら白髪化すると思われた。なお、江戸時代にはすでに石室が破壊されており、玄門や天井石は鳥居の殿様が集めて城跡公園にある。
〇大神神社・室の八島 ・・・ 式内社である。実際には国府近くにあり総社機能が中心か。
大神神社。このあたりに道鏡さまや親鸞聖人も棲んでいた。藤原実方卿や芭蕉翁も来ました。
境内の室の八嶋めぐりをする。いかでやは思ひありとも知らすべき室の八嶋の煙ならでは(実方)
〇しはぶきの森 ・・・ 歌枕。御嶽ちっくな森。ミツバチの箱があってコワくて引き返しました。
まわりは田んぼと宅地なのだが、これが遺ったのはやはり何等かの霊地なのであろう・・・
8月14日(水)・・・・・・・・・・・・・・・
会社に行かずにシアワセである。鎌ヶ谷での激務が雨で流れたので、夕刻まで船橋市郷土資料館を見学しました。
もう7〜8年前に来たことがあるのですが、中を随分作り変えたみたいです。石器時代からの船橋の歴史がわかるようになっていました。今回は、船橋ヘルスセンター(1955〜77)がどこにあったのか、調べに行ったのですが、展示からはわからないので事務所で訊いてみたら、以前の企画展で使った地図を見せてもらえた。
薬園台公園の一角にあります。「薬園」は享保期に丹羽正伯が将軍吉宗の許可を得て作った薬園があったので名づけられたのである。
江戸期の小金牧で飼養されていた在来馬の模型。後ろの影がサラブレッド。だいぶん大きさが違う。戦前期には騎馬学校もあり、バロン西やウラヌス号もここにいたんです。
これを見せてもらう。昭和41年ごろの航空写真との
こと。中央部にある楕円形が船橋競馬場で、そのすぐ西(現在大規模小売施設があるよし)に船橋ヘルスセンターがあったのだ。1970年代、地方の小学生であったわしにさえ名の知られた巨大レジャー施設「船橋ヘルスセンター」は「長生きちょんぱ、船橋ヘルスセンター」とCMソングで謳われたが、自らはわずか22年しか存在しなかったのだ。しかし日本国民になにやら名状しがたいシアワセ感を遺して行ったといえよう。
なお、この写真を見ると、6月23日に行った船橋大神宮のあたりまで、昭和40年ごろまでは舟がたくさん舫われていたこともわかります。勉強になった!
8月18日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・
遠征がてら、従来から宿題になっていましたところの
〇平沢官衙遺跡へ。奈良平安期の郡衙遺跡であるが、建物の考証がなかなかすばらしいんです。
背後に一山隔ててつくば山が見える。
〇北条町 ・・・ 近世のつくば山参詣の宿場町であるが、中世は常陸平氏嫡流・多氣氏の居館があった。
多氣氏は平国香の次男・繁守(長男が貞盛→清盛平家へ)の子孫であったが、多氣太郎のとき、頼朝の近侍・八田知治の讒言により守護代を終われ駿河で客死。その遺臣らが建てたのがこの墓であるという。多氣太郎は裏堀と呼ばれる用水路を作ったり、北條の町づくりの恩人ということになっています。
こちらは宿場町の外れにある八坂神社の五輪塔。中にお経が収めてあったそうです。
〇小田城 ・・・ 八田氏の子孫が小田氏で、その居城として300年続いた平城、最終的に佐竹氏に奪われた段階で総曲輪を有していたという。
小田城本丸あとに東曲輪から入る。
庭園あとなどが確認されています。はるか向こうにつくば山。
9月1日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・
青年時代からの、というか、まだチャイナにあこがれていたころの、あこがれの地であった黄檗山万福寺に行ってみました。煎茶とインゲンマメで有名。
山門を出れば日本か茶摘み歌。山門から入るには500円入りますが、その価値はあります。700円ぐらいはあるのでは?
布袋さん=弥勒菩薩。沖縄の「みるく」の原型である。
回廊。これも重要文化財。
木魚の原型とされる「開梆」(かいぱん)。右にかけられているバットみたいなやつで殴る。メシの準備が出来たときなどに僧侶に報せるためのものなので、メシも準備せずに叩いて音を立てるとひどい目にあうようである。
隠元が持ってきた元版・大蔵経をもとに、鉄眼禅師が喜捨を募って開版された「鉄眼一切経」の版木。いまの摺師のひとが刷ってました。一日百枚ちょっとが限界とのこと。なお、木は吉野のサクラで、幕府の許しを得て使ったそうです。また、開版の仕方は「かぶせ彫り」という手法で、隠元の持ってきた大蔵経をばらいて、それを木板に貼り付けて彫っていく(したがって元の本は残らない)手法。この「元版」の文字が「明朝体」で、「元版」が一枚二十字二十行であったため、四百字詰め原稿用紙の原型となったのである。
9月7日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
沖縄に来ました。単なる観光ではないのだが、観光のようでもある。
〇宇佐浜遺跡 ・・・ 沖縄島北端の辺戸岬にある先史遺跡。貝塚とか縄文土器出た遺跡などがあります。
すでに昭和30年代に発掘調査がなされているんじゃよ。
〇安須森御嶽 ・・・ 「中山世鑑」によれば、天孫の沖縄嶋に降りてきたとき、最初に降りたのが「辺戸ノ安須森」といい、王府の尊崇を得ていたのである。
宇佐浜遺跡あたりから見上げる。あの四つのギザギザが安須森ノ御嶽じゃよ。
やっと発見した安須森御嶽(黄金御嶽)の拝所。「うがんじょのちゅらさ、うちなんちゅのちむぢゅらさ」(拝所の清らかさは、沖縄びとの心の清らかさを示しているのだ)という立て札があり、さらに、「ここから先は信仰上の理由のないひとは入ってはいけません」と書いてありました。ロープや鎖伝いに登る難所だといわれています。肝冷斎がそれにもかかわらず入って行ったのかどうか、はわかりませんのじゃよ。
こんなすごい森と岩壁の果てだ。肝冷斎には無理であろう。
恩納村前兼久。ハーリー競争で名高いそうです。ここで晩飯食ったときの肝冷斎は、あちこち泥だらけで、なにやら満足そうな笑みをたたえ、ひとが変わったようであった、という。
肝冷斎はその後行方知れずとなった。東京には台風が近づいているというが、肝冷斎の心の闇の暗さなど、みじんも感じさせぬ空の青さだ。
9月16日(月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
福島県内で調査。
〇三春町郷土資料館 ・・・ 三春はもと中世田村氏(伊達政宗正室愛姫の出身母体、秀吉東北仕置きで改易)、近世秋田氏の城下町である。秋田氏関係はおもしろかった。自由民権コーナーもありました。
商店の道具とかカイコさんの道具とか、三春駒の型紙や、田部井さんの関係資料、幕末期の佐久間庸軒の関係などいろいろ。
〇蛇石 ・・・ 三春ダムに沈んだ蛇石集落の名前のもとになった「へびいし」さま。集落から引き上げて湖畔に移された王子神社境内にあり。
王子神社境内の弁天社にあります。石碑群に囲まれた横筋の入った巨石。
〇船引の「お人形様」 ・・・ 今回は、はじめは古墳見ようと思いましたが、方針変更して、これを観に来た。もと磐城街道沿いに五体の四メートルを超す巨大な「お人形様」があったが、その後二つだけになってしまい、平成年間に一つ移設復活して、現在三体。集落境界の山中にあり、夜中に見たらコワいと思われる。
屋形のお人形さま。天のゆふづつの命(金星神)であるという。腰に刀を差しています。お面は文化年間のもの。
朴橋のお人形さま。くえびこのみことという。こいつも刀あり。お面に安政年間の年号あり。平成に塗り直した。
堀越のお人形さま。平成年間に復活。お面は江戸期のもの。明治40年から祀られなくなっていたということだが、明治38年飢饉が原因であろうとのこと。
〇田村麻呂夜明かし石 ・・・ 明石神社境内にあり。大多鬼山の大多鬼丸を退治するためやってきた田村麻呂が、一夜この岩の上に座って戦略を練ったという。なお同社は鎮座1200年とのことであるが、社名から見ても、もともとこの石を磐座とするものであったのであろう。
裏側からみると座布団みたいに見えないこともありません。
〇田村市郷土資料館 ・・・ わしより一歳若いという係のひとが、トウミやせんばこきの実演してくれておもしろかった。このあたりは相馬に本山のある山津見神社(大神)のお札を祀るそうです。
トウミもせんばこきも昭和40年代まではどこでも使われていた、震災前までは使っている家もあった、とのこと。
9月21日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
台風17号が過ぎた後の調査である。土俗的とはいえ、↑の「お人形様」のインパクトはない。
17号のやつは沖縄本島西の慶良間のあたりで強くなったやつなので、「過ぎて風が弱くなる」のでなく「過ぎても過ぎてもどんどん風が強くなる」やつだったのでうちなんちゅもびっくりさー。
ルートビア屋さんだけしか開いてなかったので、三回連続ルートビア屋さんで高カロリー飯を食った。
〇楚辺(そべ)
王ガー。おそらく「王」でなくて「奧武」のオー(やまとの「アオ」(青)。海人族の葬地の称といわるる)だと思います。
王のトン(殿)。那覇港口の三重城などを築いたという16世紀、半ば伝説のひと王農大親(おう・の・うふうや)の館跡が、大親の死後、祠となり、楚辺大阿母(そべのうふあもしられ)が祀った場所である。
王のトンの裏にある城嶽(グシクウタキ)。このウタキの地は沖縄戦後に削平され、メリーゴーランドや飛行機のぐるぐる回るやつとかのある遊園地となっていた。ウタキは1960年代に復活したもの。
城嶽から那覇港方面を見る。県庁の向こうの方が那覇港のはず。
城嶽の南側に伊波普猷の生家があり、東京に完全移住する前はここに「曝書山房」を設けておった。後ろの木立は城嶽。
〇神里
樋川(ヒ―ジャー)
〇与儀
与儀の土帝君(トーティンクン)祠。
地頭火ヌ神さま祠。
自治会館の裏に整備されたヨリの嶽(左端の木立)。ほかに合祀拝所、ガーなど。
与儀公園内の山之口獏詩碑。山之口の生家がこのへんらしい。
もともと今回は、
このカードゲームの使い方について那覇市内の学習塾に打ち合わせに行ったのだが、打ち合わせは金曜日にすんで深夜便で帰ってくるはずが台風のせいでこんな調査に及んだのである。
ハロウィーンねたはコドモ世界ではあと一か月半使える・・・んだそうです。
10月6日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なお続く激務の途中に、茂木調査。茂木は、中世茂木氏(八田氏の一族)の城下である。
延喜式内・荒橿神社(論社あり)。茂木城(桔梗城)鬼門守護として平城天皇の時代に創建された、との伝えがありますが、城はそんなに古くないのでは・・・。なお茂木氏は八田知貞のコドモから始まり、承久の変や南北朝期に活躍した。佐竹氏被官として秋田に移封されている。近世においては一族の千本氏が幕府旗本として一部領地を保有した。
この鬼太郎の家みたいなモノは、神社境内にある「阿弥陀堂」。ぼろぼろなので保存のため鉄骨でおおわれている。もと16世紀半ばに建てられたとみられる三重塔であったが、かなり古い時代から一層のみの建物になっている。
茂木城本丸望櫓跡付近から、茂木の町を見下ろす。荒橿神社から尾根伝いに、中世茂木城(桔梗城)へ行けます。本丸、二の丸、三の丸、出丸などを備えた本格的な山城遺跡であるが、ヒガンバナ群生公園としても有名になっています。なお、近世には細川氏が一時期入り、山麓に陣屋を置いた後、谷田部に本拠を移した。
茂木城の二の丸と出丸の間の空堀。この先でクランク型に曲がっており、実に興味深いナワバリである。中世に二度の落城記録があるなど、実戦向けの山城であったことが明らかである。ヒガンバナがまだ咲いていました。
本丸付近には「たばこ神社」(麓にあった専売工場から移転)もあり、昭和40年ごろまで全国屈指のたばこ農村として栄えていたそうです。真岡軽便鉄道をここまで引いて来た大正の町長さんとか、教育長さんとか、郷土の偉人たちの顕彰碑が並ぶ。こんなでかい顕彰碑を建ててもらえるなんて、うらやましいなあ。
町中文化交流施設・町立図書館で、茂木文書の世界展をしていました。茂木文書といわれるものは東京大学史料編纂所、秋田県立公文書館、本図書館にあるそうで、茂木家の秋田移転後、秋田に遺ったもの、そこから明治期に史料編纂所が写しをとったもの、茂木家の一族から茂木の吉成家に伝わったもの、の三つに分かれるそうです。文書は中身もオモシロい(んでしょう)が、来歴がオモシロいのが多いです。
これは茂木から小山の激務に戻る途中、立ち寄った桜田の二宮神社と尊徳資料館。小田原藩領の桜田陣屋跡である。尊徳が数十年にわたって苦労して仕法した地だ。
今回、激務のため午前中しか使えず、この程度の調査に終わってしまった。もう少しじっくり調べる必要があろう。
10月22日(火)即位礼正殿の儀の日・・・・・・・・・・・・・・・・・・
東都大学野球を観に行くつもりだったんですが、雨で中止。しかたないので、川口市を調査に出かける。
〇川口市文化財センター
安行の蛇形がどーんと据えられている。邪悪なモノは入れないであろう。
かっこいい市内出土縄文土器の数々。縄文海進では5メートルの海底であったという川口市市街部。中後期は古東京湾の海岸線にあって多くの遺跡が発見されています。安行式の標識土器も川口から出たのだ。
かっこいい鋳物の数々。ダルマ式ストーブは「冬の革命児」とポスターに書いてあった。
〇旧田中家住宅
大正年間に材木・味噌で財をなした四代目田中徳兵衛(貴族院議員)が建てた木骨レンガ造りの店舗兼住宅。設計者は愛知出身・職人上がりの桜井さんだ。
裏に昭和初期の和風館がつながる。四代目が貴族院議員時代に多数の来客を迎えるためのものだったとのよし。裏の庭園には鯉がいて、近づいたら「ぎゅぎゅ」と鳴いた。エサを求めて押し合ってうろこやひれを擦る音で「鳴く」のだ!
左手は防火シャッターになっています。ここにも隠れ二階があって、使用人らの休憩室であったという。
南平といわれた付近の歴史紹介コーナーもあり、勉強になります。
〇川口市郷土資料館 ・・・ ことらはもとの鳩ケ谷の郷土資料館のようです。
見沼代用水を渡って鳩ケ谷の宿へ。家康さまが上杉討伐にここに泊まったあと、小山で西軍蜂起の報を得て評議して関ケ原に向かったので、ここは縁起のいい土地、ということなり、日光御成街道の宿駅として栄えたのだ。
先週、女子野球のあと来てみたんですが時間切れで入れず。再チャレンジになりますが、なかなか見ごたえあり。釣り竿は鳩ケ谷の名産だったとは。
小谷三志コーナー。小谷は江戸後期の冨士信仰の指導者。埼玉は冨士講の盛んな地であったが、三志は富士に加えて伊勢川上を聖地とし、女人登山を開始し、道徳活動を行って、「不二孝道」を唱えた。その流派は明治の神仏分離を「宗教団体ではなく道徳団体」だとして乗り越え、昭和30年代まで活動していたのであるという。
企画展「川口味ものがたり」をやっていました。味噌・酒はともかく「ブルドックソース」がうまそうでした。
〇鳩ケ谷宿
鳩ケ谷氷川神社。
法性寺山門。太田道灌建立説もあるそうですが、岩付太田氏の方かも。
鳩ケ谷は三七市で有名だったんじゃ。これは中町バス停横にある「市神社さま」。
箱崎山地蔵院。躍動的な鎌倉期の不動尊像で名高い。
川口市内にはさらに関東郡代伊奈氏の陣屋跡に歴史自然博物館というのがあるらしいんで、そのうちまた来ます。楽しみだなあ。
10月26日(土)〜27日(日) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
宮崎行ってきました。多忙な所用の中、調査を行う。
〇本野原(もとのばる)遺跡 ・・・ 新石器時代から縄文時代に至る住居跡が発見された国指定史跡。
台地状になった見晴らしのいい場所にあります。
〇生達神社(そだちじんじゃ) ・・・ 神武天皇ご成育の地という。
どこかに神武天皇腰掛の石(ほかにも伝承地あり)があるはずなんですが、裏手の山は「入らず」であり、近所に人影も見えず諦めた。
田野の山中の山腹部に開けた集落の中にあり。このあたりはコバ(焼き畑農地)であろうか。
〇潮嶽神社 ・・・ 数年前にも訪れていますが、海幸彦(敗者の方。隼人の祖先)を祀る全国唯一の神社である。
塩満つ珠の高潮?津波?に追われてこの山中の地まで、巌舟にてお逃げになってこられたのだという。
〇虚空蔵島 ・・・ 日南海岸に飛び出した亜熱帯植物群生地。飫肥藩が虚空蔵菩薩を祀ったため、植生が保たれたのだという。ここも数年前にも訪れていますが・・・。
こんなところを上がっていくんです。
こんななかなか夜になったらいけなさそうな場所があり・・・
この門のところに横棒があってここが結界ぽいので、前回はここで止まったのですが、今回はこれを越えて行ってしまい・・・
ほんとに怖いことがありましたので、かなり背筋ぞくぞくした。そのまま風邪気味になっています。どんなコワいことがあったか、は、まだコワいので、いずれ心静かになったらお話ししましょう・・・ぎ・ぎ・ぎ・・・。
〇宮崎空港・神話のステンドグラス
藤城清治先生の原画に基づく。女神さまたちが近代的でそこはかとなく色っぽいぜ。
宮崎まで来て一泊二日かよー、とさびしくなりますが、それにしても南九州はやっぱりコワいなあ。あちこちにあちら側につながる穴が開いているっぽいんです。