フィールドワーク録20−1 (起:平成31年1月1日(火))  目次へ  平成30年11月〜12月へ

今年こそ何かいいことあるといいなー、と一瞬思ったが客観的には無い。

1月1日(火) ・・・・・・・・・・・・・・・・

○伊勢神宮に年越し詣り。

○午後起きだして、津観音参拝。

日本三観音の一というので、行かないといけないのかなあ、と思い、病身をおして行ってきました。(ほかの二は浅草と大須だそうです。)

津の人が伊勢神宮に行って天照大神に「一度だけでもお姿をお見せください」と祈ったところ、観音菩薩の姿で現れたので、天照大神の示現であり、津観音にも参らないと伊勢神宮行っても効果は半分なんだそうです。

1月2日(水) ・・・・・・・・・・・・・・・・

○国指定史跡・王塚古墳

昭和45年に指定。鈴鹿川東岸の国府付近にある全長60mの前方後円墳。明治期に盗掘を受けている。五世紀後半という。

遺存状態は非常によいです。「北勢を代表する古墳」とのことです。鈴鹿国造と関連するか。

○保利里古墳群

王塚古墳のある西之野古墳群のすぐ北に接して存在。五世紀前半ということである。双円墳が印象深い。

病院の敷地内にあり、勝手に上り下りできるのでオモシロい。

○国府町内探索 ・・・ 律令国府がここにあったのかと思うと感慨深い。

伊勢国総社(推定)とされる三宅神社。裏に大量の「山の神」の石が並んでいた。夜中来たら白髪になりそうである。

「北一色」など地名もオモシロいのだが、これは集会所の横にあった神社。なんと「八百姫神社」である。八百比丘尼関連の地にだけ祀られており、越前・小浜や尾張・常滑などが有名だが、こんなところにもあったとは・・・。

1月3日(木) ・・・・・・・・・・・・・・・・

FH氏のご尽力により頭の宮四方神社に参拝。

FH氏とここに来たのは四十年ぶりぐらいか。屋台で○○焼きを食う。このあと「体調が悪い」ことを理由に、新幹線でタマゴロウ二個、帰京後納豆タマゴ定食を食べてしまい、今日はタマゴ四個である。

FN女史に買ってもらったくつを履いて来たんです。くつ代払うの忘れたが、まあ今度でいいでしょう。

Fさんの家のネコ。このネコは目が見えないそうなんですが、すごい食欲で侮れない。

1月5日(土)〜6日(日)・・・・・・・・・・・・・・・

体調悪化をものともせず、紀州調査を敢行。(写真資料は今後アップされるであろう)

○日前宮(にちぜんぐう) ・・・ もともとは古代・紀氏が和歌山平野の水利権を把握したとされる宮井用水の水分神(「溝口の神」)であったらしいが、五世紀ごろ、紀ノ川河口部に大和朝廷の外港が設けられるとともに、皇祖神話に関わる天岩戸開き関係の社となり、日前(ひのくま)大神(天照大神を映した鏡という)を祀る日前宮(ひのくまみや)と国懸(くにかかす)大神(天照大神の形代となった日矛という)を祀る国懸宮の二社からなる(二社合わさると「にちぜんぐう」と読むらしいんです)。

全体の鳥居。

由緒書き。

こちらが日前神宮(ひのくまのみや)。なお鳥居の向こうには「撮影禁止」と書いてありました。こちら側からいいかも・・・。

こちらが国懸神宮(くにかかすのみや)。

○鳴神貝塚 ・・・ 近畿地方で初めて発見された貝塚として名高い。縄文早期のものとのこと。

フェンスがあって入れません。

○岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群 ・・・ 紀伊国造・紀直(きのあたい)一族の古墳を中心に、千近い古墳から成る超絶大古墳群。もちろん国指定で、現在紀伊の国風土記の丘公園となっており、同公園で把握・保存している古墳だけで450とかあるんです。前方後円墳・方墳・円墳などいろんなのが山一帯にあって、すばらしい。生きていてよかった感の大古墳群である。岩橋千塚型といわれる特異な横穴式石室を持つものが多い。

ついに到着、紀伊風土記の丘公園である。

資料館で出土品をチェック。左側のは有名な両面人面ハニワである。

裏山に登るとこのようにぼこぼこと古墳がある。

これが岩橋千塚型石室です。細かい石片を大陸の磚(レンガ)のように積み上げ、石の梁(よこはり)を使い、天井高は三メートルぐらいにまでなる。

逆に奥行きはあんまりありません。墓室自体は狭く、地上まで、短い羨道がついている。昔は羨道の外側に石板がはめられ、そこからが死者の土地であったという。

一番でかい大日山古墳に到着。

後円部造り出し(上の写真の右端あたり)に復元されているハニワの出土状況。力士ハニワが力強く四股を踏んでいる。

○伊太祁曾神社 ・・・ スサノオノミコトのコドモで、新羅から「木」をもたらしたとされる五十猛命(いたけるのみこと)、その妹神・大屋津姫命、抓津姫命の三神を祀る。境内に古墳があるが、さすがに時代的に神代のものはない。御井あり。水うまかった。

毎年、カービング(チェーンソーだけで木彫りを作る競技)の世界大会が行われるよし。

○和歌の浦 ・・・ もともとの紀ノ川河口で、大和朝廷の軍港であり、奈良時代には聖武天皇が観に来て「奠供」儀礼を行ったそうで、山辺赤人の歌が有名ですが、その後、砂洲が発達して景観は大きく変わった、ということである。地名も「弱浦」(わかのうら)から「和歌の浦」となり、同地の玉津島神社は、住吉社とともに和歌の守り神になりました。かつては海中の島であった奠供山、鏡山などは陸上の岩山となり、妹尾山だけは今も海中にありますが台風の被害で入れなかった。紀州徳川家が頼宣さまの母・おまんの方を妹尾山に祀ったこともあり、不老橋など徳川家関係遺跡もあり。南方熊楠が孫文と一緒に観光に来ています。

玉津島神社。

玉津島神社裏の「奠供山」頂より和歌の浦方面を望む。

鏡山麓の塩釜神社。鳥居の奥に洞窟がある。

徳川治宝公のときに作ったという不老橋。当時は一族の方しか渡れなかったという。

おまんの方さまを祀る妹尾山。

妹尾山への橋のたもとに、かつては茶屋・芦辺屋がありました。南方熊楠は、ここへ孫文を連れてきたんだそうです。

○奇絶峡 ・・・ 田辺市の山中にあり。滝上に幕末ごろ、謎の修行者らの示唆により不動明王を祀る。さらに昭和40年代に、地元有志らの発願によって、堂本印象画伯の原画による摩崖阿弥陀三尊仏像が岩壁に彫られた。すばらしい。

滝の上の方の奇岩のかたわらに不動堂あり。そのずっと上の方まで昇ると、三尊像がある。

この岩壁に彫られています。足元まで昇った。かなり不安定で、滑落すると危険であったが、こんなところで事故るならそれこそ本望ならむ、と思い登りました。ああコワかった。あたりは備長炭の原料となるウバメガシの林である。

○紀州備長炭振興館 ・・・ 産業資料館は勉強になるなあ。備前屋長右ェ門(二代目)が山の仲間たちとともに発明したんですね。ちょうど一竈かまだしをやっていて話を聞くこともできて勉強になった。

備長炭振興館である。

伐採道具コーナー。

これは木炭エンジンのモデル。木炭からLPガスを抽出させて内燃機関を動かすという、なかなかむつかしいものであったのだ。

窯だし風景。左側のひとはどこかの知らんおばさん。窯出ししてはる人は、長いこと愛知県で働いてはって定年後ここに定住してやっとるとのこと。

○蟾蜍岩(ひきいわ) ・・・ 巨大な岩である。南方熊楠採集地の一つという。

これがヒキガエルのようにみえるという。

○闘鶏神社 ・・・ 弁慶の実家といわれる。平家物語など参照ください。

社殿。裏の仮庵山はクスノキの巨木多く、これを伐採しようという運動に南方熊楠らが反対、伐採は差し止められた・・・のだが、狡猾な官憲とブルジョワジーは「枯木」と認定して多くのクスノキを伐木して売り飛ばしたのだそうである。カネのためだから仕方ないなあ。

熊野別当湛増と弁慶父子の像である。物語は「伝説が真実である」と信ずる「われら弱き者たち」に支えられているのだ。

○南方熊楠顕彰館・自宅 ・・・ 顕彰館ではやはりきれいごとばかりで、同性愛、家庭崩壊、近所との確執、ネコ虐待など暗部?については触れられていなかった。いさかいを起こした南側の境界を確認できました。今もそちら側の家とはいろいろあるらしい。

顕彰館入口。こんなひと、行政や教育界のひとが顕彰してはいけませんよ。すごいひとだ、とわれらは心の中では愛するが。

書斎。発狂した息子から資料を荒らされないように深夜に広げていたという場所である。

こちらの境界線ぎりぎりに工場を作りやがって、というので大騒動に。確かに今の家もぎりぎりまで建物を立てているようであり、顕彰会の方々といろいろある模様である。

○磯間岩陰遺跡 ・・・ 古墳時代の埋葬地として名高い。その後、室町期にも火葬墓のあとがある、ということで、「さんまい」に近い場所だったのであろうか。

海人の長らしいのも葬られており、国指定史跡である。
幅30メートルも無い程度の岩陰である。左側はもうすぐに住宅となっている。

今回はここまで。紀州にはもっといろいろ調べねばならないことがあるのである。

1月12日(土) ・・・・・・・・・・・・・・・・・

○日本銀行貨幣博物館 ・・・ 一億円重い。

○三井美術館

1月13日(日)〜14日(月) ・・・ 成人の日で休みだったんで、ナスに行ってきました。

○那須烏山・山あげ会館 ・・・ 「山あげ」とは何であるかわかりました。それにしても勘兵衛じいさんが「旗頭」(きがしら)だったとは・・・(←山あげ会館に行けばわかります)

「日本一の野外劇・山あげ祭」のミニチュアを解説してくれる右端のやつが勘兵衛じいさん(ロボットである)。最初暗いところに一人で座っているのでわたしの同類かと思って親近感を持ったが、若いころは指導的な若い衆だったどうでがっかりである。

○下野烏山城 ・・・ ヤタガラスに導かれて築城したという中世豪族那須氏の本城にして、近世下野烏山潘の居城です。享保の改革の立役者の一人・大久保常春、藩家老の悪事を告げんとして自死した(しなかったとも)蛇姫さま伝説で名高い。中世山城以来の縄張りがよく遺っており、縄張り調査者としてはたいへん勉強になった。

常盤曲輪から本丸に向かう指貫門のところの石垣。上の本丸、右手の古本丸から矢で狙われる場所にあり、本丸に入るには内枡門を大きく迂回せねばならないというすばらしい山城の縄張りである。

古本丸(戦国期には詰めの丸の位置づけか)の杉林。縄張りすばらしいので一度観に行って来てください。

○宮原八幡宮 ・・・ 坂上田村麻呂の創建になるという。もと烏山城内にあったが、15世紀に平地に移設された。現在の本殿は16世紀の修理の記録があるというのであるから、たいへん古いものである。今も宮司家が境内にある。夫婦木、明治初年の年貢訴の記念碑などあり。

宮原八幡社本殿。室町様式を遺す貴重な建物である。創建時はこけら葺きであったそうです。

○龍門の滝 ・・・ 太平寺の53世の住持が滝の「男釜」から龍(大蛇)を呼び出してしまったのである。太平寺には蛇姫さまのお墓もある。

滝の途中に男釜と女釜といわれる滝つぼがあり、男釜の方に龍が棲んでおられたのである。

滝の近くにある太平寺の仁王門。蛇姫さまほか大久保一族の墓があるほか、那須氏時代の同族だまし討ちの跡地でもある。付近には鎌足薬師(中臣鎌足の生誕地伝説)があるが訪ねることはできなんだ。

○なす風土記の丘資料館・同野上津館 ・・・ 縄文(浄行寺型土器)、古墳出現期の前方後方墳、那須国造時代の各種古墳・横穴墓、東山道、那須国造碑、那須郡衙、水戸光圀の発掘事業などについてたいへん勉強になった。ただし、この二館は連携とれてない感じでした。

〇那須郡衙跡 ・・・ 風土記の丘資料館のすぐ近くにあります。

正庁(または正倉)跡。このあたりはお寺跡だと思われていたそうですが、近年郡衙であったことが判明した。

○大田原民俗資料館 ・・・ 那須鉄道など。

○前方後方墳 ・・・ 那珂川沿いの狭い範囲に六個もあって、国造になる前の那須の首長たちの墳墓と想定される。出現期古墳とされる那須八幡古墳、駒形大塚古墳、吉田温泉神社古墳、その後のものとされる水戸光圀(の指示を受けた佐々木助三郎の指導を受けた庄屋・大金重貞)の発掘で名高い、上侍塚古墳、北上侍塚古墳、下侍塚古墳の六つである。

那須八幡塚古墳から那珂川上流方面を見る。

吉田温泉神社古墳。上の写真の右端あたりの森が観音塚(隅丸方墳)、及び吉田温泉神社で、神社拝殿が前方後方墳の上にある。神社境内には古墳群があるが、ほとんど滅失しているものと思われる。

このあと、下侍塚古墳・古墳群、笠石神社(那須国造碑を祀る)など調査したが、有名どころなので特に写真は載せません。

北上侍塚古墳後方部より上侍塚古墳を望む。

駒形大塚古墳。前方部が失われていますが、なかなか立派なものである。ネコ発見も逃げられる。

○そのほか、古墳群多数あり。

○三和神社 ・・・ 大物主を祀る式内社。裏山は「三輪山」である。駒形大塚古墳の近傍にある。

どんど火で屋台出てました。腹減ってたんで大判焼き美味かった。

横穴墓とか高根沢や馬頭の民俗資料館など、まだまだ調査対象はたくさんあるのですが、今回はここまで。

1月19日(土)〜20日(日)・・・・・・・・・・・・・

センター試験で都内にも居ずらく、関東地方調査に出かけた。19日関宿、20日結城の調査である。

〇関宿城博物館 ・・・ 現在の博物館は旧関宿城から少し離れたところにあります。一応本丸に「三階櫓」があったのでそれを模した形になっている。博物館自体は利根川・江戸川の治水、海運、関宿藩の歴史について展示しており、なかなかよい展示であった。

関宿城本丸跡。本丸跡の半分は河川敷になっている。残りが公園になっています。

この関宿城博物館は城址から少し離れたところにあります。かなり展示物はよく出来ているのですが、野田市と合併してしまい、野田市博物館との関係など追い込まれていくのではないか、と心配です。

旧関宿城地はほとんど耕作地化しており、城下町もほぼ原形はない。

〇鈴木貫太郎記念館 ・・・ 終戦内閣で有名な鈴木貫太郎さんの記念館。彼が「大阪府出身」とされるのは、関宿藩の飛び地が和泉・堺にあり、そこに勤めていた関宿藩士の子に生まれたからである。海軍学校の成績はすごくできるわけではないが、日露戦争では前線指揮官、駐在武官として軍縮会議にも関与し、連合艦隊司令長官、軍令部長までしているのであるからすごい人である。八十を過ぎて憲法改正時の枢密院議長を務めた後、晩年は関宿で酪農の指導をしていた。

記念絵はがきを買ったが、おつりが一週間に一回しか届かない?ため、410円ぴったりないと買えない。一応ぴったりあった。

〇寺野東遺跡 ・・・ 栃木県小山市東端にある縄文〜平安までの重層遺跡である。特に縄文後期の「木組み遺跡」(木枠を組んだ水場で、栗果その他の洗い場とされたと想像されるもの)、数千年存在したとされる環状土塁遺構とその中心部の敷石施設の存在で名高い。寺野東古墳もあり。

この先に木組み遺跡や環状土塁遺構が復元されています。資料館もあり充実していて、ここから栃木県内の各遺跡に行きたくなるような作りである。

〇十三塚合古墳群 ・・・ 寺野東遺跡に隣接するがこちらは茨城県結城市内。もと十三の古墳があったそうでうすが、現在は三つしかないそうです。

原型をとどめる浅間塚古墳。

〇高椅(たかはし)神社 ・・・ 延喜式内社。料理の始祖を祀る。禁鯉社でもある。

楼門は水野家時代に作られたもの。立派である。

〇結城城址 ・・・ 南朝側の結城氏の居城であり、室町期の結城合戦で名高いが、結城氏移転後は、水野家が福山改易後、1万8千石で襲封した。戊辰戦争でも結城戦争が行われ、建築物は火損した。現状では中世期以来の空堀あとがあり、意外と縄張りがしっかりしていて、近代戦(戊辰戦争)でも城郭として機能したことが判明する。

空堀あと。

〇結城市街 ・・・ 古い町並みが残り、紬の館とか蔵美館で少しは勉強できたが(特に明治四十年の大演習・結城大本営のことや「鳩子の海」について)、日曜日で店が軒並み休みなのとしかるべき博物館(郷土資料館)が無いので、町についてイメージが作られづらいところが難点であろう。とにかく腹が減った。

〇健田須賀神社 ・・・ 延喜式内社(の健田社を須賀神社に合祀したもの)。結城市街地にあり。

拝殿。ネコがいた。

〇結城大本営跡 ・・・ 明治天皇がお見えになるというので、明治40年11月14日〜20日の御宿営のために地面を七センチ掘り返して新しい土を入れ、アルコールと煮沸で何度も消毒した、そうである。

場所は結城小学校の校地を利用。歓迎のアーチを作るなど市民は興奮しまくった模様。

〇稱名寺 ・・・ 親鸞聖人を招いた結城朝光のお墓あり。

〇金光寺 ・・・ 小田林にある。山門に結城家埋蔵金伝説のキーとなる(とされる)三首の暗号和歌が書かれているので有名。結城埋蔵金は、今でも掘っているひとがいるらしいですが、明治期に子爵・水野さまが前祝いに町中に二段重ねモチなどを配ったそうであるが発見されなかったという。

この山門に和歌が浮き彫りにされているはず・・・なのですが、マジメにお参りに来ているひともいるのでこれ以上は近づけず。

〇山川不動尊 ・・・ 結城市域の南端にある山川地域は、もと山川水野家(17世紀に駿河に移封され、後に水野忠邦を出す水野家で、結城水野家とは別家)の山川綾戸城があり、山川不動尊のある大栄寺はその菩提寺とされ、初代から十一代の忠邦までお墓もある。なお、山川不動尊のご本尊は、平将門が京都の東寺からもらってきたが、滅亡時にその家臣が山川沼に沈めたのだそうですが、室町期に発見されたもの、とのことです。将門さまが絡んでいたのだ。

山川不動尊拝殿。かなり立派な絵馬がかかる。

水野忠邦墓。

案外暖かくてよかったです。

1月26日・27日 ・・・・・・・・・・・

大寒で凍えてしまうので、「冬眠中」と称してそっと沖縄へ。沖縄では先月から軽便鉄道の配線跡地を歩いてみる、ということをしています。

〇与那原線 ・・・ 那覇・与那原間

おそらく廃線マニアにはたまらんのだと思います(わたしはマニアではない)が、旧軽便鉄道跡地(國場付近)。軽便なので狭いですね。

数少ない遺構の一つ、看板の下あたりにレンガ積みがあります。小さな橋脚の遺存物です。

沿線の民俗遺物。与那覇の善縄御嶽。「琉球国由来記」にも出てくるので調べないといけないんですが、まず「由来記」を部屋の中から探さなければならん。

大里の「火の獅子」。どこかからの攻撃を迎えて火伏せしている。島尻の「シーサー」はたいてい他の村からの攻撃への「ムケ―」(迎え)なので、シーサーがどちらを向いているかでどことどこが仲悪いかわかるらしいです。

旧与那原駅跡地。現在は軽便鉄道与那原駅資料館。18時までやってます。昭和天皇が東宮時代にここから那覇までお召し列車に乗られたんです。「今日は那覇から歩いてきまちた」と言ったら係の女性が褒めてくれました。わーいわーい。

〇糸満線

糸満線はやっと三分の一ぐらい。喜屋武駅跡地です。いつになるかわかりませんが、次回はここから始めなければ・・・。

2月2日(土)・・・・・・・・・・・・・・

今日は都内で、国立公文書館の企画展「温泉〜江戸の湯めぐり〜」を観に行く。たいへん勉強になります。

3月9日まで。日曜日や祝日は閉館ですが、土曜日はやってはるんです。

「箱根七湯」の絵入り案内。まだ大涌谷は「死出の山」と表記されています。当時の温泉は混浴だったり男女別だったり、ふんどしつけていたりいろいろなのがあったようです。

こちらは上州草津の湯。ほかにも、那須殺生石伝説や、下田温泉に現れた黒船や、明治14年政変の仕込みの間ずっと有馬温泉で湯治していた岩倉具視の湯治願い書(三条実美が「聞き届け」ている)やら、豊臣秀吉・秀次やらいろんな資料が出てます。すばらしい。

2月3日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日は日帰りで市原の上総国府付近を調査。しかし、スマホを忘れて行って地図と時計が無く、デジカメは電池切れで役に立たず、店屋も無いんで腹が減った。

〇飯香岡八幡神社 ・・・ 上総総社。八幡宿にあり、源頼朝が逆さ杉を寄進している。参議院議員もされた菅野元八幡町長のかっこいい銅像もあり。

〇祇園原貝塚 ・・・ 縄文後・晩期の貝塚。国分尼寺跡にあり。100体以上の遺骨も出ているそうである。

〇上総国分尼寺跡 ・・・ 全国最大級の国分尼寺跡で、国指定史跡となり、中門と回廊が復元され、展示館もあって勉強になった。国分尼寺が、国分寺とは別に政所を持つ独立した寺院であることが、この史跡の発掘で初めてわかったのである。

〇上総国分僧寺跡 ・・・ 今も中世以来の国分寺があり、江戸期に作られた薬師堂や将門塔(南北朝期の宝篋印塔)もあって興味深い。七重塔礎石が残っており、六十メートルを越えるものが建っていたということである。なお、薬師堂には「パパがはやく退院できますように」と言って母子連れがお参りに来ていて、単なる調査目的の自分が情けなかったです。

〇神門五号墳 ・・・ 霊園の裏手にある前方後円型古墳。大和の箸墓古墳と同じ三世紀前半のホタテ貝型古墳で、東国最古の出現期古墳としてすごい有名である。県指定文化財として遺されているが、それに次ぐ四号墳・三号墳は調査の後、住宅開発により滅失した。

〇稲荷台一号墳(疑似) ・・・ 20メートル程度の小規模な円墳であったが、昭和51年、「王賜××恭敬」との銘の入った鉄剣が出て、有名になった。ただし古墳は住宅開発で滅失し、三分の一の大きさの疑似復原?されたものが住宅地の中に存在している。

〇阿須波神社 ・・・ 萬葉集に出てくる「阿須波の神」の祀られている小祀であるが、丘陵の端にあって上総の平野が見下ろせ、国府比定地にも近い古代神社であった。今回の上総調査はこの神に導かれたようなものである。近くに「姥神社」もあり。

〇郡元八幡神社・市原八幡神社 ・・・ このあたり、国府比定地である。

 「ホントに行ったのかね?」と言われるのも癪なので、行った証拠にもらったリーフレットの写真載せます。「送ってもらったんじゃないの? ああーん?」と言われると悔しい。

2月9日(土)〜10日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

深夜バスにて四国に到着。詳細は徐々に報告されるであろう。

〇高松城

月見櫓と水手御門。この門のところまで海だったのであるという。

〇香川県立ミュージアム

〇石清尾山(いわせおやま)古墳群 ・・・ 高松地域固有の積石塚がすばらしい。日本に六例しかないという双方中円墳が二つ(または三つ)ある。

猫塚。双方中円墳の積石塚。中円部が明治期に破壊されている。聖地になっているのであろうか、磁力かなんか測っているみたいなひとがいた(右端に写っているひと)。

姫塚、鏡塚、小塚、石舟塚、北大塚。

〇讃岐国分寺、国分寺跡、国分尼寺跡、日向王塚

〇讃岐国府跡付近 ・・・ 崇徳院関連遺跡があるのだ。

国庁推定地あたりから崇徳上皇流配地を望む。中央の木立のあたりが鼓岡神社(粗末な御殿であったので木の丸殿と呼ばれた家屋の跡地と伝えられる場所)。

国庁後推定地、鼓岡神社(木の丸殿跡)

・内裏泉 ・・・ 鼓岡神社裏手にあり。崇徳院はここに移られてから身の回りのお世話をする者も少なくなり、おん自らこの井戸で水を汲んだともいう。

貴人の使った水であるので、村人たちはこの水を使うと目が見えなくなると称して使わなかったということである。

・椀塚

・菊塚 ・・・ 上皇と地元のむすめとの間にお生まれになった御子を葬りし地と伝わる。

塚頂の笠のついた石がすごく気になります。

・奨学田

・城山神社 ・・・ 国府近くの朝鮮式山城でる城山を守護する神社である。

いい感じに村の鎮守と化していますが、延喜式内社である。

〇西祖谷

・かずら橋

重要民俗文化財である。三年に一回架け替えているとのことだが、下が見えるし、まん中へんで明らかに隙間を空けて恐怖感を感じさせようとしているような気のする部分もあり、すごいコワかった。

この近くに琵琶滝があり、そこからずっと上ったところに、平家よりさらに四世紀ぐらい前に祖谷を開いたとされる「恵伊羅御子」と「小野媼」の記念碑?があった。

これです。これは山田なんとかさんが作ったもののようですが、この碑から左に「洞窟」があって、その向こうに「お山公園」という施設があったもようである。

現状では廃墟化しており、入れません。「地獄洞窟、天国動物、駐車無料」と書かれていたので、ドウブツがいたのだと思われる。右端の布袋さんみたいな像も不思議である。夜は来ない方がいいと思います。

・西岡家(平家屋敷民俗資料館)

平家伝説を語る者は必ず一度は訪れねばならない、みたいなところなので来てみました。期待してはいけない、と思いつつ・・・

この地域の庄屋待遇で漢方医もやっていた「西岡外記」家の合掌造りの家を使って、西岡家に伝わる人形やら明治期の褒状やら民具やらとにかくいろんなものが置かれており、これはこれでたいへんオモシロい。

ガラスケース越しなので光が写り込んでいますが、トンでも系でも少しはマジメ系でもよく触れられる「平家の赤旗」。西岡外記は蜂須賀家に敗れて臣従するまで「堀川外記」と名乗っており、もと安徳天皇の侍医であったのだ! ということなのですが、その証拠とされるのがこの二旈だけだというのがなあ・・・。

〇東祖谷

・栗枝渡八幡神社 ・・・ 安徳天皇御陵の一つとされる栗枝渡(くりしど)の八幡神社。車を置いたあと、ずいぶん山を上ったところに遠かったが、静かなたたずまいで感動した。お参りしたとき腹の底からありがたいキモチになりました。

御陵でもあることから、鳥居が無いのだということです。

拝殿右側に「御火葬場」あり。杉の間からしめ縄が見えるが、ここで安徳帝を火葬したのだという。

なお、栗枝渡(くりしど)は「キリスト」で、この神社も十字架の神紋があるのだ、という説もあるそうなんです。それで鳥居が無いのだとかなんとかとんでもなあ。

・天皇森 ・・・ という地名の森です。安徳天皇が隠れ棲まれた地だというのだが・・・。

橋の左側が「天皇森」と思われます。橋は誰も通るひとがいそうにもない風情だが、たもとにお地蔵さんがあったり、途中に花束が飾られていたり、暗くなってから来たらマズイ感じかも。

・木村家住宅 ・・・ 17世紀からある庄屋さんの家。囲炉裏が二つきってあるなど不思議なつくりである。

〇大歩危

・妖怪博物館 ・・・ 道の駅大歩危に設置されている博物館。山城、祖谷に多くの妖怪伝説があることから設けられたのだそうである。

この博物館、人形とか使っていたり、妖怪ブームに乗っかってるんだろうと「タカ」を括って観に来たのだが、実によく出来た民間伝承館でした。どういう方の監修か確認していないのですが、「憑き物」家系のことなども逃げずにちゃんと書かれていて、たいへんよかった。次は賢見神社と犬神神社に行かねばな・・・くっくっく。

四国といえばタヌキである。この山峡にも「汽車ダヌキ伝説」があるのですが、ここには線路を走ってくるのではなく、山道に現れて「こんなところに何故汽車が・・・?ああそうだった、鉄道が開通したんだった」と混乱させ、山道で動けなくなっている汽車と変化してニンゲンに一晩中押させたりするんだそうです。

〇二宮飛行神社

2月11日(月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

紀元節でお休みだったんで、川越・南大塚古墳群を観に行きました。

山王塚古墳。高さ1メートルの方墳の上に、円墳が載っており、周囲には周溝をめぐらせる。東日本最大といわれる下方上円墳である。

南関東道が通るので一部発掘された南大塚古墳群ですが、2000年以降、宅地化や耕地化が進み、ほとんど原型をとどめるものはないようです。

右手の茂みがおそらく7号墳。この茂みは現地では「ヘビ島」と呼ばれ、田んぼに中になぜか遺されていますが、墳丘の形は失われている。また、畑地の中に3〜6,8号墳跡と思われる非耕地が残存。この写真左の方に、ほとんど低平化した6と8が見えます。・・・と言われてもわかりませんよね。

2月16日(土)〜17日(日)・・・・・・・・・・・・・

群馬県方面調査へ。(今後書き足します)

・館林

〇館林第一市民資料館 ・・・ 郷土資料館だそうです。館林城のことに詳しかった。

〇田中正造記念館 ・・・ 田中は佐野のひとであるが、足尾銅山事件は館林も被害を受け、押し出しなどで活躍してるため記念館が作られ、NPOが管理しているんだそうです。

〇武鷹館 ・・・ 100石取り秋元家の住宅を移築。

〇館林城 ・・・ 綱吉さまの居城として有名ですが、沼を利用した中世以来の名城で、綱吉さまがお子様がなくなったので破却してしまいましたが、その後、幕末まで譜代大名が次々入った。最後は秋元家。

三の丸土橋門が復興されている。

・藪塚(太田市内)

〇北山古墳・西山古墳

北山古墳。円墳である。

西山古墳。前方後円墳である。昭和35年に石室を補強したそうです。

〇藪塚石切り場 ・・・ 薮塚石は明治期には加工しやすいのでだいぶん出たらしいのですが、柔らかすぎて強度が保てないので、大谷石にとって代わられたという。

その石切り場跡が遺っているのですが、なかなか神秘的な雰囲気。仮面ライダーのどれかのロケもしたそうです。

〇三嶋神社・古代祭祀場跡

〇郷土資料館 ・・・ 縄文土器(ぐるぐる縄文ちゃんなど)、ハニワ(鷹匠ハニワなど)、新田郡衙関係資料が充実。民俗農具もあり。

〇スネークセンター ・・・ おもしろかった。

〇三日月村 ・・・ 木枯らし紋次郎を記念したテーマパーク。絡繰屋敷、不可思議土蔵、怪異現洞の3アトラクションはオモシロかった。

・太田市内 ・・・とにかく風が強くて寒かった。

〇加茂神社 ・・・ 式内。裏山に古代祭祀遺跡あり。

イノシシが出るので午後三時ぐらいまでに参拝は終えろ、と書いてありました。おそろしい。

神社裏手の山上にある古代祭祀遺跡。ぎりぎり午後三時ぐらいである。

〇彦部家住宅 ・・・ 住宅というより、16世紀以来土着している彦部家の中世城郭。案内してもらわないといけないシステムなんですが、ほかのお客さんの案内しておられたので入るのはやめました。

〇二ツ山古墳(1号墳・2号墳) ・・・ 新田郡衙に近く存在する六世紀後半〜七世紀初頭の前方後円墳。

1号墳。一部石室入口が露出していてはまりこみそうであった。

墳形もはっきりしていていいんですが、とにかくからっ風が強くて歩くのがたいへん。

〇新田郡衙跡

写真を撮っている側に古代東山道あり。向こうの方が二ツ山古墳。この郡衙には、東北の蝦夷たちが連行されてきて服属儀礼をしていたらしいので、巨大な郡衙であったそうです。最近その全貌が明らかになってきたのである。

2月23日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

那覇・首里城へ。御内原の復元・公開が成った、というんで観に行きました。

〇玉陵

〇首里城・御内原 ・・・ 首里城の「奧」です。なにしろ女官の方々のお力の強い王権でしたからね。

今回復原された東のアザナから首里城御内原を見渡す。海も見えてスバラシイ。

東側を見ると、右の方の安座間御嶽(せいふぁ御嶽の裏山にあたる)の左側に久高島が見えた。ここからお通しで拝めたのだ。

女官の風呂の跡だそうです。

城域の東端のあたりにあるガマ。一応王朝時代の地図にも記されているとのことですが、使途不明。女官の息抜きの場、という説?もあるそうです。鉄血勤皇隊が掘った部分もあるとのこと。

〇軽便鉄道眞喜志駅

3月3日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・

サントリー美術館で「河鍋暁斎展――その手に描けぬもの無し――」を見せていただく。もうすぐシルバー割引になるはずだが、まだ一般人なので高い。

雨降りで、思っていたよりさらに空いていたので見やすかったです。特に心にのこるものがあったわけではないが、狩野派の神髄は「模写による研鑽」にあるということが勉強になった。狩野探幽が模写した鳥羽僧正の「鳥獣戯画」を模写した絵もありました。

3月9日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

業務上絶望的になってきているが、そこを押して観タマの後、東京西部を観察。

〇ツチノコ発見地 ・・・ 京王よみうりランド駅付近の新東京百景の一「弁天洞窟」に行ってみたが、崩落の危険があるとのことで無期限閉鎖中。この近くの「ありがた山」の麓で、平成13年4月1日午前10時ごろに「ツチノコが発見された」という。目撃した者は連絡してほしい、と富士急ハイランド事務局の連絡先が書かれている。

「四月一日」に発見された、というのがミソなのであろうか。

〇妙覚寺 ・・・ 足利義晴さま開基という名刹である。

梅林が満開状態。

境内にはかっこいい不動尊のほか、15世紀の板碑(ここでは「青石塔婆」ともいうらしい)、筆塚などがあります。左の筆塚は1854年に、この地域のひとたちが建てたもの。地域教育に大きな足跡を残した角田すず女の辞世「紫の雲の迎えを待つばかり浮世のことはとてもかくても」が刻まれる。わしも早く現世を離れこの境地になりたいものじゃ。

〇調布・布多天神社(ふだてんじんしゃ) ・・・ 延喜式内社(武蔵八社の一)である。もと多摩川沿いにあって少彦名神を祀り、布のさらし場に近かったそうで、「調布」(たつくり)の作業ともかかわるのだそうですが、室町時代に現在地(調布駅近く)に移転。秀吉の出した太閤制札や近藤勇の孫久太郎の日露戦役での戦死記念碑などの文化財が遺る。太閤制札では「補陀」(ふだ)と表記されているよし。

多麻河伯爾左良須氐豆久利佐良佐良爾奈仁曾許能児乃己許太可奈之伎(たまがはにさらすたづくりさらさらになにぞこのこのここだかなしき) (萬葉集巻十五上)

武蔵の国・多摩川に手織りの布を晒(さら)している。(その「さら」の音の連想でおれは思ったんだけど、)特別(「さらさら」)にどうしてこの娘がこれほど可愛いく思われるのか。

のご当地です。ああ、どうしてかなあ。

おみくじひいてみたらありがたいのが出ました。よくなってくるのカモ。
梅の花盛りであった。

3月10日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は千葉県市川市。

〇市川大浦自然公園 ・・・ レッサーパンダで有名な動物園の裏手にあります。

こんなところである。中に熱帯植物園(無料)あり。

熱帯植物園のサボテンども。

旅人の木。われもまた旅の境涯にあるなれば、この木の下で永遠に休むことになるのであろうか・・・。

〇駒形大神宮 ・・・ 経津主命を祀る。

左の方の建物は御霊神社。鎌倉権五郎景政を祀るが、もとは将門さまを祀っていたと伝わる。

駒形大神宮の近くにあった馬頭観音碑石群。明治16年のものから昭和18年のものまで確認できた。また、安永八年の石仏もありました。

〇大野城跡 ・・・ 中世城郭である。今は中学校になっています。

中央の山が城跡です。現状では目立った遺構は無い模様。ここも将門さまの出城説あり。

3月17日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

浦和市内をさまよう。

〇医王山金輪寺

薬師堂や巨大板碑などもあり、なかなかのものですぞ。真言宗豊山派。

〇調(つき)神社 ・・・ 式内社。伊勢神宮に送る貢物(「調」(つき))を集める場所として、倭姫命に選択されたという社伝あり。貢物の運搬に便利なように鳥居が無いのだ、という。また、「つき」=「月」ということになって、社内のあちこちにウサギの像があるのでも名高い。職場の同僚たちと三十年近く前に来たのを思い出す。みんなまだ体が動いていたなあ。

鳥居がありません。また、狛犬ではなく、ウサギが向かい合っているのである。

鳥居代わりのしめ縄が見えます。拝殿の額は松平定信さまの揮毫とのこと。

3月31日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

平塚で所用を果たしたのち、寒川へ、相模川を越える。

〇前鳥(さきどり)神社 ・・・ 式内・相模四の宮。

むかし横浜在住時代に来たご縁の深い神社なんです。見違えるようにきれいになっていました。

〇田村館跡 ・・・ 鎌倉初期の三浦義村の居館。昭和30年代までは土塁などが遺っていたが、市営住宅を建てたときに無くなったそうです。

このあたりには中世、田村荘があった。近世においては中原街道、大山街道、八王子往還などがまじわる交通の要衝であった。

相模川を渡る「田村の渡し」側から田村荘あたりを見る。右端は大山、夕日のすぐ左に富士山が見え、左端の方は箱根連山である。

〇寒川神社 ・・・式内、相模一の宮。

日没時間に閉門、ということでしたが、入れた。

何かの予行演習らしく、拝殿で田楽舞いの所作を行っていたので見物する。得した気分である。

さくらまつり最終日。真ん中に富士山、右手に大山が、ここでも観れました。明日から平日で無ければシアワセな気分になれるのになあ。

4月29日(月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

多忙な観タマ修行の合間を縫って、国立公文書館にて

〇平成31年春の特別展「江戸時代の天皇」

を観てきました。みなさん、江戸時代に何代の天皇がおられたかご存知ですか。そのうち女帝は? さらに、そのうち「天皇」と呼ばれた方は何人?
など、いろんなことを知ることができるすばらしい展示でした。江戸時代の改元はすべてで三十回、天皇(または将軍)の代替わり改元、甲子・辛酉の革令・革命改元、災異改元に分類できるそうですが、その決め方、ニセ元号事件、元号に関する風評・ウワサとか、いろいろ面白い。
そしてさらに、光格天皇のご退位時と修学院離宮行幸時の絵巻が展示されていて、これがでかくて迫力あるんですが、見物人が大量に書き込まれていて、武士、町人、おんなこども、僧侶など、みんなシアワセそうでいいなあ。

かなり客入りがいい模様。観に行かないと取り残されるカモ。

上皇が御乗りになっておられる玉輦です。

見物のやつらの一部。ガキがいますね。

4月30日(火)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は雨降りでした。昼の本職のあと、

〇文京ふるさと歴史館 ・・・ 企画展「金栗四三青春の地・文京区」を観に行ってきました。ちょっと前(といっても昭和58年)まで生きておられた方なんですね。ところでオリンピック・マラソンで初の金メダル取った日本代表、って誰? 学芸員さん、触れるんならちゃんと納得のいく程度には解説してくださいよー。

金栗四三と一緒に写真が撮れる。

さあ、いよいよ明日は令和元年や。

 

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