平成29年2月27日(月)  目次へ  前回に戻る

地下から出てきたドウブツたち。彼らもまた何かなすべきことを為したい、という野心はあるのであろうか。

肝冷斎がいなくなってしまったんです。沖縄に行く、と言って出て行ったきり。

「休むわけにもいかんじゃろう。誰か更新しておけ」

と一族の長老がおっしゃるので、おいら半人前の半冷斎が更新いたちまーちゅ。

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半人前なのであまり難しいこともできませんので、短いのを一つご紹介いたします。

堪笑書生抱杞憂。 笑うに堪えたり、書生の杞憂を抱くを。

乾坤自古事悠悠。 乾坤いにしえより事悠々。

狂人別有胸間快、 狂人別に胸間の快なる有りて、

無日無登売酒楼。 日として売酒楼に登る無きは無し。

「杞憂」は今更説明するまでもありませんが、

杞国有人憂天地崩墜、身亡所寄、廃寝食者。

杞国に、人の天地の崩墜して身の寄る所亡ぶるを憂いて、寝食を廃する者有り。

杞の国に、天地が崩れてしまったら、いったいどこに居ればいいのだろうか、ということが心配になって、寝るのも食うのもできなくなってしまった、というやつがいた。

というので、行っていろいろと教えてやる、という「列子」天瑞篇「杞憂」のことですね。ときどき、このひとは「天が落ちてくるのを心配している」のだ、と思い込んでいる解説書があるのですが、彼は「天地が崩れてしまう」と立ったり座ったり寝たりする「寄る」場所が無くなる、ことを心配しているので、ご理解ください。この杞の国のひとに教えてやる内容は、古代の宇宙観がかなりまとまって書かれているので、たいへん勉強になるのですが、本論からどんどんはずれていくので今日は省略いたちまーちゅ。(勉強したいひとは、先々先代ぐらいの肝冷斎が書いたこちらをご参照くだしあ→「杞人憂天」 「杞人憂天」(続き)))

 大笑いできてしまう。書生が要らん心配をしているので。

 天も地も、おおむかしからゆったりとあるものである。

 ところが、キ○ガイ(のわたし)はまた胸の中に別の楽しみ方があるので、

 毎日毎日、酒場の二階に昇っては、酒びたりである。

周布政之助が上方へ行くというんで、また飲みに行く。

酔臥欄干夢寐間、 酔うて欄干に臥す、夢寐の間、

櫓声鳥語満川閑。 櫓声鳥語、満川のどかなり。

二州橋上日斜処、 二州橋上、日斜めなる処、

万戸屋頭看富山。 万戸の屋頭、富山を看る。

「二州橋」とは、「ふたつの国にかかる橋」です。さて、なんという橋のことでしょう? 「日斜め」というのは色町を「斜巷」「狭斜」というのを意識しているのであろう。「富山」は富士山。

 二階のおばしまに酔っ払って寝てしまったが、夢の中では、

 舟を漕ぐ櫓の音と鳥の声とが聞こえて、川のあたりはまったくのどかである。

 両国橋のあたり、日の斜めに差し込むところ(のような狭い色町で、午後から飲んでいるのだ。)

 一万戸も密集した家々の屋根の向こうに、ああ富士山が見えるぢゃないか。

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東行先生・高杉晋作の文久三年(1863)春、江戸で遊興に日を過ごしていたときの詩なんだそうです。

先生はこのころ「江戸にて一事業を興す落着」(江戸で何か一つでかいことをやる方針だ)と言って回っていたそうです(冨成博「高杉晋作 詩と生涯」(1992三一書房)p76)が、結局何もせずに京都に行くんだそうで、この無計画性がいかにも高杉東行的ですね。おいらも何か「一事業を興す落着」なんですが、半人前なので何の起業するかがまとまらなないうちにイタズラに日々が過ぎていくのである。

 

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