ひとの何倍もの量のものを一すすりで飲み食いするひともいるのである。彼らにとって普通のひとの一すすり分など耳かき一さじレベルであろう。
ときおりはエビフライでも食べたいものである。
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あるひとがわしの村に来た。
客問郷譏不能倹以取貧者、曰大頭蝦。何謂也。
客問う、郷に倹なること能わず以て貧を取る者を譏りて、「大頭蝦」と曰えり。何の謂いそや、と。
そのひとがわしに問うていうには、
「こちらでは倹約できずに無駄遣いばかりして貧乏になってしまった人のことを批判して、「大あたまのエビ」と言うそうですが、どういう謂われがあるのですかな?」
そこで、わしは答えた。
蝦有挻鬚瞠目、首長于身。
蝦に挻鬚(せんしゅ)瞠目(どうもく)、首の身より長き有り。
「こちらで獲れるエビの中に、ヒゲが長く、目は大きく、あたまの部分がそれ以外の身の部分よりでかいのがおるのじゃ」
「ほほう」
「このエビは、あたまはでかいが身が小さいので食べるところがあまりない。
集数百尾烹之、而不能供一啜之羹者、名大頭蝦。
数百尾を集めてこれを烹るも、一啜の羹を供するあたわざるもの、「大頭蝦」と名づくなり。
数百匹集めてきて煮ても、やっと一すすり分のスープにもならない、というエビで、これを「大あたまのエビ」と言っている。
甘不足、豊乎外、餒乎中、如人之不務実者。然郷人借是以明譏戒。
甘は足らず、外に豊かにして中に餒え、人の実を務めざる者の如し。然れば郷人これを借りて以て明らかに譏り戒むるなり。
あんまりうまくないし、外見は立派なのだが、中は腹の足しにならない。まじめに実行しようとしない人にたいへん似ているので、ここらへんの田舎者たちは、こいつを譬えにして、批判し、戒め合うのである。
ああ、都の知識人の中に、このような批判を受けずにすむ人がどれほどいることであろうか。
言雖鄙俗、明理甚当。
言は鄙俗なりといえども、明理はなはだ当たれり。
コトバとしてはいかにも田舎っぽいが、正理をよく突いているといえるだろう」
「なるほど」
エビフライにしても頭でかいと食べるところないですからね。識者のことばと言えよう。
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明・陳白沙先生の「大蝦説」(大きなエビについての議論)である(「陳白沙全集」所収)。エビの立場から見ると、「大量に食っておいてなんだ」と言いたいところであろう。
白沙先生は広東・新会のひとなので、先生の郷里には、中央のひとから見るとびっくりするような亜熱帯の海産物があったのであろう。そろそろおいらも亜熱帯の食べ物でも食いたいところである。(陳白沙先生については、こちらを参照。なつかしいなあ)