ばてて来ました。夏バテ的。あるいはウツか。季節が変わりつつあるのでしょう。はあ。
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バテとは関係ないのですが、孔子というひとはその出自がはっきりしない。
「論衡」によると、
孔子生。不知其父。其母匿之。
孔子生まる。その父を知らず。その母、これを匿せり。
孔子が生まれたとき、その父がわからなかった。その母が、それを秘して語らなかったからである。
と。
なかなかドラマチックな出生ですのう。
そこで縁者たちは竹を切って何本かの笛を造り、その笛を次々に吹いて行って、その子が反応する音階を調べた。孔子が反応した音階は、殷の大夫を表わすものであったので、孔子の父は殷(春秋のころは宋の国)の大夫の末裔であることがわかった・・・のだそうでございます。
というふうに出自が明らかでない、という伝説がある一方で、孔子には兄貴がおりました。
子謂南容。邦有道不廃。邦無道免於刑戮。以其兄之子妻之。
子、南容を謂う。邦に道あれば廃せられず。邦に道無けれど刑戮に免る、と。その兄の子を以てこれに妻(めあ)わす。
先生は、南容(南宮适のことである。字を子容という)のことを評して、こうおっしゃった。
「その国がまともな国であれば、彼は用いられないということがない。その国がまともな国で無くても、刑罰を受けることもないひとだ」
そして、兄貴の娘をヨメにさせた。
さらに、孔子には姉貴がおりました。「礼記」に
我則有姉之喪故也。
我すなわち姉の喪有るが故なり。
「・・・わしはそのとき、姉貴の喪に服しておったからな」
という一言があるので、そのことが知られるのだそうです。
この兄貴と姉貴がどんなやつだったか、というのを調べているのですが、なかなか調査が進んでおりません。
わしのみならず、むかしの知識人もわからなかったらしく、上の孔子の姉貴の記事は清の自庵・周寿昌の「思益堂日札」(巻一)に引いてあったのですが、周寿昌もこの姉貴のことがよくわからなかったとみえて、
所適何姓氏無聞。
適(ゆ)くところ何の姓氏なるか聞く無し。
いったい何というひとのところにヨメに行ったのかも聞いたことがない。
と嘆いております。
ついでに
雖幸為大聖人骨肉子孫、亦不能妄附青雲。況餘子乎。
幸いに大聖人の骨肉子孫たりといえども、また妄りに青雲に附くあたわざるなり。いわんや餘子をや。
孔子のような大聖人さまの骨肉を分けた兄弟姉妹や子孫に生まれたとしても、理由もなく青雲にくっついて天上に上がるように、その名を歴史に遺すことはできないのである。聖人の子孫でも何でもないみなさんはもっとそういうことは難しいのである。努力せねばならぬぞ。
と説教垂れてくれた。
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以上。バテている(またはウツな)ので落ち無し。