お久しぶりです。ほんと、ずいぶん長い間更新できなかったような気がします。わたしが悪いのではなくてPCさまが悪いのです。
なお、わたくしごとで申し訳ありませんが、この間に、東京都立埋蔵文化財調査センター、パルテノン多摩歴史ミュージアム、
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さて、来週にはPCを修理に出してみようと思います。直らなければもうしようがないですが、修理するにしても大分日にちもかかるであろう、ということで、いつ最後の更新になるかわからぬ状態は続いております。最後の更新になるかも知れんのなら、思い出に「論語」を引用してみます。
「公冶長篇」にいう、
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子謂公冶長、可妻也。雖在縲絏之中、非其罪也。以其子妻之。
子公冶長を謂う、「妻(めあわ)すべきなり。縲絏(るいせつ)の中にありといえども、その罪にあらざるなり」と。その子を以てこれに妻す。
先生、公冶長さんのことについて(次のように)おっしゃった。
「ヨメをとってもいい男じゃのう。捕らえられて囚人になっているが、彼の罪でそうなっているのではない」
そういうて、自分のムスメをヨメにさせた。
「縲」(ルイ)は黒い縄、「絏」(セツ)は縛り上げること、だそうで、二語合わせて罪人を拘束することをいう。
また、
A
子謂南容、邦有道不廃、邦無道免於刑戮。以其兄之子妻之。
子南容を謂う、「邦に道あれば廃せられず、邦に道無きも刑戮(けいりく)に免(まぬ)がる」と。その兄の子を以てこれに妻す。
先生、南容さんのことについて(次のように)おっしゃった。
「国家がまともならば必ず用いられ、国家がまともでなくても何とか刑罰に処せられるのは免がれる男じゃ」
そういうて、兄のムスメをヨメにさせた。
この二条、古来、なぜ、二人の男のヨメにするのに、自分のムスメと兄のムスメの差をつけたのであろうか。聖人の意は如何、と議論が続けられてきた。
ア)南容の方がどんな世の中でも生きていける立派な男なので、兄のムスメを優遇してそちらにやった。自分のムスメはバカ正直が取り得の男のヨメにやった。兄を尊重するとは、聖人の判断はさすがだ。
イ)まっすぐな男とどんな世の中にも対処できる融通の利く男。どちらもいい男じゃ。そこで、まっすぐな男には自分のムスメをもらうてもらい、どんな世の中にも対処できる男には兄貴のムスメをもらうてもらう。自分のムスメは危ういことがあっても仕方ないが、兄のムスメには安全をとってもらうのだ。さすがに聖人・孔子の計らいの見事さよ―――。
「論語」を人生実践の書として読むなら、この二つあたりが教訓として導かれると思います。数式化すれば、すなわち、
公冶長<南容
です。「四書微言」など多くの書が取る立場でもあります。
が、「論語」をそういう人生の書としてではなく、これから科挙を受けるために勉強しているひとは、気をつけねばなりません。
古来の有力な注は、以下のウ・エのように
公冶長=南容
としているのです。ココ、重要。
ウ)唐以前の古注の中でも最も名高い皇侃(こう・わん)の「論語義疏」によれば
二人無勝負也。
二人勝負無きなり。
この二人の徳には優劣はないのである。
世の中の動きに応じて自分を隠したり出したりする(南容)は「智」である。しかし、曲がったことを正そうとして罪を得る(公冶長)のは立派なことである。孔子が自分のムスメを公冶長に、兄のムスメを南容に、それぞれヨメにやったのは、どちらがいいわるいというてハカリにかけてそうしたのではなく、
政是当其年相称而嫁。事非一時、在次耳、則可無意其間也。
まさにこれ、その年の相称(かな)うに当たりて嫁すなり。事は一時にあらず、在次なるのみにして、その間に意無かるべし。
実態は、それぞれの年齢のふさわしい方にヨメにやっただけなのじゃ。自分のムスメと兄のムスメの婿取りは、同じ時期だったわけではなく、順次行われたもので、二人に差をつけるような意味があったわけではない。
エ)宋の程伊川先生は、あるひとから「公冶長は賢者ですが南容ほどではなかった。そこで聖人・孔子は自分のムスメを公冶の方に、兄のムスメを容の方にヨメにやった。弟である自分よりは兄の方が大事だ、ということでございますね」と問われた。
先生、質問者をぎろりと睨み、答えていうに、
此以己之私心窺聖人也。
これ己れの私心を以て聖人を窺うなり。
「おまえの考えは、おのれの浅はかなわたくしごころを以て聖人のお心を測り窺うというオロカな考えじゃ!」
と一喝。
「だいたい、あるひとを嫌がる、というのは、こちらの方の内心に足らざることがあるからそんなことを考えることになるのである。聖人はその心、至って公平であられるから、ひとを嫌がる、ということはない。また、ムスメをヨメにやるとき、というのは、ムスメの能力も推し量って、一番適切な男を選んでもらってもらうものじゃ。あいつがイヤだ、こいつがスキだ、というて選ぶものではない。孔子の時代のこと、どちらが年上だったか、どちらの縁談が先に持ちかけられたのか、何もわからないのだ。
唯以為避嫌、則大不可。避嫌之事、賢者且不為、況聖人乎。
ただ避嫌のためを以てするは、すなわち大不可なり。避嫌の事は賢者すら為さざるなり、いわんや聖人をや。
それなのに、ただどちらがいい悪いだけで決めたように考えるとは、なんというバカモノか、おまえは! どちらがいい悪いだけでムコを決めるようなことは、少し物のわかるひとなら誰もしないことなのじゃ、聖人がそんなことするはずがないであろうに!」
と説教になってしまうのが如何にも程子らしいというべきか。ただ、この話は朱子の「論語集注」に引かれているので、必須記憶事項です。
なお、荻生徂徠先生(「論語徴」)も 公冶長=南容 なのですが、さすがにこの章の意義について、個性的な結論を引き出しておられる・・・。
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ということで、みなさん、唐や五代・北宋の科挙を受けるつもりならウ)を、南宋以降の王朝の科挙ならエ)をもとにして回答を考えてくださいネ。
―――――ところで。
わたくしはこの「公冶長篇」の公冶長と南容の記事(二つは別の章、とする本と、同じ一章だとする本とあります)を読むたびに、いつもいつも気になってしかたがなかったことがあります。
A)公冶長は「その罪にあらず」とありますが、なんの疑いで捕まっていたのだろうか。
B)孔子には兄貴がいて、姪っ子がいて、ムスメがいたようだ(さらに息子がいたのとヨメがいたが追い出してしまったことまでは存じております)が、家族関係はどうなっていたのだろうか。
この積年の問題意識のうち、A)について、先週、更新できずにヒマなので読書しておって、ついに知ることができたのです。うひゃあ、そんなおそろしい罪だったのか!
ああ。朝に道を聞けば夕べに死するも可なり。
なので、知ることができた喜びを抱いてフェイドアウトしていくのがよろしいのかも知れません。それに、たいていのひとはこんなこと、以前から知っていることでもありましょう。しかし、もしかしたら知らないひともいるかも知れない。
ので、次回また更新できましたら、そのことをお話しさせていただくことといたします。