「世の中にはこういうエラいひともいるのじゃなあ」
明の永楽年間のこと、北京に交趾国(コーチ、現在のヴィエトナム北部)から二人の使者が派遣されてきたことがあった。
この二人の使者、弁舌もさわやかで文才もあったが、二人揃って
飲量絶人。
飲量ひとに絶す。
お酒の量がすごいのである。
皇帝は近侍の者の中から酒量の多いもの二人を選んで接待させたがてんで敵わない。そこで、近衛軍の中でも選び抜かれた酒豪二人を呼び寄せて相手をさせることとした。二人とも丈高くでっぷりと太った豪傑であったが、それでも交趾の使者には全く歯が立たなかった。
ちなみに、この接待は「応酬」である。向かい合った二人がそれぞれ一杯飲んでは相手にさかずきを渡して注ぎ飲ましむ。相手より酒量がいかないものが接待すると、主人側が先に酔うてしまい、客人側が歓びを尽くさないうちにお開きにしてしまわねばならなくなる。これは大変恥ずかしいことであった。
皇帝、ぎぎぎと悔しがって曰く、
「交趾にはあれほどの豪の者が二人もおるというのに、
朝廷上無一能飲者乎。
朝廷上に一の能飲者無きか。
我が朝廷には一人もよく飲むやつはおらんのか!」
と。
すると、ひとりの文人が封書して、
「朝廷に飲者あり。」
と上奏してきた。
皇帝、上奏者を召して引接したところ、数年前の状元(科挙試験の首席)であり、翰林に属している曾棨(そう・けい)という青年であった。
「曾状元よ、朝廷に飲者あり、とは誰のことを言うておるのか?」
曾棨は緊張した面持ちながら得たりや応とばかりに、
「今、陛下の前におりまする」
とお答えした。
「なんと」
「どうぞ陛下、白面の書生と蔑まれることなく、わたくしを交趾の使者と酌み合わさせてくださりませ」
「むむう」
皇帝、問うて曰く、
卿量幾何。
卿の量、幾何(いくばく)ぞや。
「そなたの酒量はどれぐらいなのじゃ?」
すると、曾棨答えて曰く、
款此二使足矣。不必尽臣量。
この二使を款(ほしいまま)にすれば足る。必ずしも臣の量を尽くさざらん。
「お使者どのたちに好きなように飲ませればよろしいのでしょう。別にやつがれが飲める量は関係ございますまい。」
と言いはなったのである。
「ほう・・・、あいわかった、そなたに賭けよう」
永楽帝、もとより雄才を以て史上に抜きん出る逸材である。曾棨の言を好しとして、使者たちの相手をさせることとした。
於是飲徹夜、二使皆酔愧而去。
ここにおいて飲むこと夜を徹するに、二使みな酔い、愧じて去れり。
そこで夜を徹して一対二で飲みあったところ、二人の使者はともに酔いつぶれてしまい、大いに恥じて宿舎に帰ってしまった。
一人で二人の酒豪と「応酬」して、勝ってしまったのである。
皇帝たいへん喜び、
不論卿文学、只是酒量、豈不作我明状元耶。
卿の文学を論ぜず、ただこれ酒量のみにして、あに我が明の状元ならざらんや。
「そなたの文章作成の能力がどうであっても、ただこの酒量だけで、もう我が大明帝国の「状元」というべきである。」
と誉め、自ら酒を注いで労ったのであった。
曾棨は大いに出世すると思われたのだが、その酒量のせいであったろうか早く病いによって世を去った。
その臨終の床において酒を求め、酔って歌いて曰く、
易簀蓋棺、此外何求。白雲青山、楽哉斯丘。
簀(サク)を易(か)え、棺を蓋うに、この外に何をか求めん。白雲青山、楽しきかなこの丘や。
死に臨んで敷物を変える(自らと同じ姓の曾子の臨終の際の故事)。ひととしてなすべきことを終えて棺の蓋をしてもらう。
この時、一体この(酔いの)境地以外の何を求めることがあろうか。
白い雲は青い山の上を行き過ぎる。
何と自由で楽しいのだろうか、このわしの眠るべき(墓地の)丘は。
豪爽(豪放で爽やか)なことではないかね。
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明・焦пiしょうこう)「玉堂叢語」巻七より。「豪爽」の訳語はおそらく「ルーピー」ではありませんので念のため。(なお、こちらも参照せよ。)
焦は字を玉侯、号して澹園(たんえん)といい、江寧(今の南京市内)のひとである。彼自身、萬暦十七年(1589)の「状元」であり、翰林院を振り出しに将来を嘱目された俊才であったが、権力者に追随することの無い性格と、正確性を重視する学問的態度により上司や同輩の反感を買い、若くして失職して著述に従事した。「国史経籍志」「献徴録」などを遺して萬暦四十七年(1619)に亡くなった。
「玉堂叢語」は最晩年に、自らもかつて奉職した翰林院の先輩・同輩の言行を記録したもので、彼自身のメモを死後に門人らが編集したのではないか、とも言われる。