大したものじゃ。
今日はIG氏と晩飯を食ってきた。お互い中年にして「食べられなくなった」ことを嘆きつつ。
しかし、間もなくこの国には、流通システムが壊れるなどして本当の意味で「食べられなくなる」日が来るような気もしますし、わたしどもも収入の道を失って「食べられなくなる」可能性がどんどん高まっております。
――今はまだ豊かな「冬の初め」でしかないのだ、間もなく餓え凍える厳冬が来るのだ。
そう思うと逆に今この日には暴飲暴食してしまうのが、熊やリスやアリならざるわれらひとの愚かしさでございましょう。
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劉公琬くんは今は提学副使の重職に就いておられるが、わたしとは予章に赴任していたときの同僚である。
あるとき、劉くんとわたしが主催して、同僚たちを集めて妓楼で飲んだことがあった。妓楼では演し物に俳優たちを集めて「西廂記」を上演していたが、わたしたちの宴席はその正面にしつらえられ、なかなか豪勢なものであった。
主人役である劉くんとわたしの席の前には三列の卓があり、そこには大小のさかずきが並べられている。
その中に
有最大一瓢、可容十升。
最大の一瓢あり、十升を容るべし。
最もでかいのは瓢箪から作られたもので、十升ほど入ると思われた。
現代は清代ですから、一升はほぼ1リットルです。
わたしはそれを指さして、劉くんに
此盛酒甕、非飲酒杯也。
これ盛酒の甕にして飲酒の杯にあらざるならん。
「あれは酒を入れておく甕だろう。酒を飲むためのさかずきでは無いと思うぞ」
と言うたのだが、劉くんは彼が得意なときにいつもそうするように片頬だけで笑いながら、
「きみはこれまであれを見たことが無かったのかい」
と言い、続けて、
諺云、主不喫、客不飲。吾請先自飲、以博諸君一粲。
諺に云う、「主喫せざれば客飲まず」と。吾請う、まず自飲し、以て諸君に一粲を博さん。
「「主人役が飲むまではお客は飲むな」と言い習わされているからね。まずはわしが飲んで、それからお客のみなさんに広く飲んでいただくことにしよう」
と立ち上がり、妓女たちに指を鳴らして見せた。
妓女は心得たもので、数人がかりで大甕の酒を持ってくると、最大の瓢箪さかずきになみなみと酒を移し、また数人で持ち上げて、
「ご準備できましたわいなあー」
と愛嬌つくりながら劉くんに手渡したのであった。
劉くんはこれを両手捧げ持って飲み始めた。
座客皆立視。
座客みな立ちて視る。
宴席の客たちは、みな立ち上がってその飲酒を見つめた。
だけでなく、演技中の俳優たちも楽曲を止めてその姿に見入った。
未幾、徐徐而尽。
いまだ幾ばくもなくして、徐々に尽くす。
その間、劉どのはぐいぐいと飲み続け、それほど時間が経たないうちに十升を飲み干してしまった。
飲み干して、
「ふう」
と瓢を置くと、それまで演奏を止めていた楽隊が笛や弦楽器を合奏してこれを讃え、主役の紅娘に扮していた俳優(女形である)が
「ああ・・・」
と悩ましく折り畳式の扇を取り落とし、椅子にもたれて流し目を寄せる始末。
もちろん一座の客たちも大いに拍手喝采である。
劉くんは何事も無かったかのように瓢を卓に戻し、
「じゃあ、みなさんにお注ぎしろ」
と妓女たちに命じた。
自分も普通の杯を受け取って普通に飲み始める。
「おいおい」
わたしは卓上の瓢箪をいじくりながら、劉くんに訊ねた。
君復能飲此瓢乎。
君、またよくこの瓢を飲むか。
「きみは、この瓢箪でもう一杯飲めるかね」
劉くんが答えて言うに、
吾今為主宴客、烏可先酔。
吾いま宴客に主たり、いずくんぞ先酔すべけんや。
「わしは今日は主人役だからな、先に酔ってしまうわけにはいかんから、これぐらいにしておくのだ」
「ふうん・・・」
わたしはさらに聞いてみたくなって聞いた。
今日如此痛飲、明日尚能再飲、不作病酒状乎。
今日かくのごとく痛飲し、明日なおよく再飲して、病酒状を作さざるか。
「今日こんなに飲んでおいて、明日また二日酔いもせずに飲めたりするのかね」
すると、劉くん、また片頬だけに笑みを浮かべて、
君知千里馬乎。今日而千里矣、尚明日足繭、不能千里、是烏得名千里馬耶。飲酒亦若是耳。
君、千里馬を知るか。今日にして千里なり、なお明日足繭して千里するあたわず、これいずくんぞ千里馬の名を得んや。飲酒またかくのごときのみ。
「きみは、千里の馬を知っているか。千里の馬が今日千里走ったとする。明日は足を引きずってしまって千里走れない、と言い出したら、どうして千里の馬だといえるかね。(毎日走れて始めて千里の馬といえるのだ。)酒を飲むのも同じことだと思わんか。」
わたしは、
「なるほど、なるほど」
と瓢箪を撫でながら頷いたものであった。
可以喩大。
以て大に喩(たと)うべし。
この話、飲酒のことについて述べているが、もっと大きなことの比喩にも使えるだろう。
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劉玉衡「在園雑志」巻三より。以前ご紹介したこのお話の次に載せられているお話です。
豪放にして繊細、最後は教訓まで着いている、という、チュウゴク文学の粋を尽くしたような、まるで最終回に使ってもいいような、ほれぼれするようなよい話でしょう。