冬至夜半の子の刻に、天地回復の玄妙の音が聞こえる・・・といいます。まだ聞こえないが・・・。
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娑羅居士はもう初老のおじさんで、浙江・寧波の近郊に暮らしていた。
むかしはお偉いお役人でたいへんな文章の名手だったらしいが、今は半ば呆け、何の仕事もしていない。ただ、
釀酒治蔬、無日不延賓客。
酒を釀し蔬を治め、日として賓客を延べざるなし。
家でお酒を醸し、裏庭で野菜を作って肴を調え、毎日毎日誰かを呼んできて酒を酌んでいる。
そのため、自分の家を出ることさえしない。
杜門禁足、経年懶過隣家。
門を杜ざし足を禁じ、経年隣家を過ぎるも懶(ものう)し。
門を閉じ出かけることも無く、一年間の間、隣の家さえ訪ねていかなかった。
しかし、この日、何を思ったかふらふらと隣家を訪ねて行った。
隣家の老翁、
「お久しぶりですな、今日は何の御用かな」
と声をかけると居士はにんまりと笑い、
「老翁は白楽天の言葉をご存知かな。
丘墅有泉石花竹者靡不遊、人家有美酒鳴琴者靡不過。
丘墅(きゅうしょ)の泉石・花竹有るものは遊ばざる靡(な)く、人家の美酒・鳴琴有るものは過ぎざる靡し。
丘や野原に清らかな泉や岩、爽やかな花や竹があれば、必ずそこにふらふらと行かなければならない。
他人の家に濃やかな美酒、快い琴の音があれば、必ずその家を訪ねて行かねばならない。
人間世界にいるのは長くとも七十年ほど、しかもほとんどの日は苦しみ悲しみばかりで、心の底から楽しめる時間は短いですからな。
吾甚愧其言。
吾、はなはだその言に愧ず。
どうもわしはその言葉のとおりにできていない、と思い至りましたのじゃ」
隣家の老翁、その言を聞き、苦笑した。
要するに、酒を飲ませろと言うわけだ。
すぐに老妻を促がして自家のどぶろくを用意させ、ともに酌んで一日を過したのだった。・・・・「娑羅館清言」第128則
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ある晴れた日、小川のほとりに娑羅居士、我が身を忘れたかのように茫然と座っていた。
「居士ももういい年じゃ、自分を失う病ではなかろうか」
と通りすがりの木樵が心配して声をかけてみると、居士は振り向きもせずに答えた。
流水相忘游魚、游魚相忘流水、即此便是天機。
流水は游魚を相忘れ、游魚は流水を相忘る、即ち此れ、便ち是れ天機。
「流れる水を見てごらん。自分の中で泳ぐ魚のことなど気にかけていない。泳ぐ魚を見てごらん。自分が泳いでいる流れる水のことなど気にかけていない。これこそ、そうだ、これこそ、大自然の秘密ではなかろうか。」
「おいおい、居士どの、大丈夫か」
居士は今度は空を見上げ、雲を指差しながら言うた、
太空不碍浮雲、浮雲不碍太空、何処別有仏性。
太空は浮雲を碍(さまた)げず、浮雲は太空を碍げず、いずれの処にか別に仏性有らん。
大空を見てごらん。そこに浮んでいる雲の邪魔にはならない。浮んでいる雲を見てごらん。雲は大空の邪魔をすることはない。このことを離れて、いったいどこに仏を仏たらしめる宇宙の根本真実があるだろうか。ここにあるのではないか」
「ああ、わかった、わかった」
木樵は笑って行ってしまい、居士はまた一人で小川の流れと雲の行くのを見つめていた。・・・・「続娑羅館清言」第2則
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娑羅居士とは、明・萬暦の文人・屠隆(字・長卿、赤水と号す)の晩年の自号で、自らの居所を「娑羅館」とも呼んだ。「娑羅」(サーラ)はサンスクリットで「高遠」とか「堅固」という意味なのだそうで、「居士」は出家していない在俗の仏教信者のことであり、屠赤水は晩年仏教に帰依すること深かったゆえの自称である。
屠赤水(1543〜1605)は「三世布衣」(父・祖父・曽祖父の三代、ずっと官職に就いていない、の意。実際に親父の代までは浙江の淡水漁師であった)の庶民階層に生まれたひとですが、少年時代より秀才の誉れ高く、金陵の文壇に令名を馳せ、萬暦五年(1577)には科挙に合格して進士となった。地方官を経た後、北京で礼部主事となるが、弾劾を受けて萬暦十二年(1584)に官を解かれ、以降郷里に隠棲した。
晩年(萬暦二十五年ごろ)の自らの心境を数行の短い文章で書いた「清言」を約200篇作り、そのうち三分の二を「娑羅館清言」、残りの三分の一を「続娑羅館清言」として整理したのである。今回、ありがたいので二則だけ紹介してみました。