「今日は腹が痛かったにゃあ」
今日はやる気ない。寒い。暗い。コワい。おまけに明日がまた来る・・・。
ので、次を掲げてもう寝ます。
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「ぶぶぶう」
二十世紀の初頭。明治三十四年(1901)の年も押し詰まった十二月の半ば。
机に向かっている八の字ひげのおじさん(この年44歳)の腹が、「不平不満」でいっぱいになっていた。
その「不平不満」が、だんだんと洩れてきているようである。
やがて、ついに
「ぶぶぶぶはーー! 怪しからーーん!」
とバクハツしまして、次の詩を書き上げました。
鉱毒之毒毒何毒、 鉱毒の毒 毒の何ぞ毒なる、
五穀不実枯竹木。 五穀実らず竹木も枯る。
毒流横溢幾十村、 毒は流れ横溢す幾十村、
荒涼風物惨人目。 荒涼たる風物 人目に惨たり。
沿岸赤子年病衰、 沿岸の赤子、年々に病衰し、
有食亦難充饑腹。 食あるもまた饑腹を充たし難し。
西詣鳳闕欲訴冤、 西のかた鳳闕に詣りて訴冤せんと欲するも、
不料中途法網触。 料(はか)らずも中途に法網に触る。
吁嗟三十五万人 吁嗟 三十五万人
叫天喚地泣無告。 天に叫び地に喚き告ぐる無きに泣く。
○○○川●●山 ○○○川 ●●山
汝若有霊亦応哭。 汝、もし霊あらばまたまさに哭すべし。
鉱毒の毒――その毒はすごい毒である。
五穀も実ることなく、竹や木も枯れさせてしまうのである。
毒の流れがあふれ出て何十もの村に及び、
これらの村は荒れ果てて、その景色はむごたらしく人の目に映る。
毒の流れに沿うた地域の赤子たる人民は来る年も来る年も病み衰えていく。
食べ物があったとしても、餓えた腹をふくらませられるような量ではない。
(この状況に心を痛めたあるひとが、)西の方向にあたる天子の宮殿に参詣し罪無くも苦しむひとびとの救済を訴えんとした。
だが、どうしたことか天子のところに到り着く前に法を掌るものたちの網に引っかかってしまった。
――ああ! 流域の人民、三十五万人!
天に向かって叫び地にまろびて喚き泣く、救済を訴えることができぬ悔しさを。
○○○川よ ●●山よ、
おまえたちにも心があるならば、また声をあげて泣くだろうよ。
明治後半から大正、昭和のはじめまで漢詩界を領導し「国手」(一国を代表する手練れ)と言われた国分青の「無告なるを泣く」という作品である(「青克国カ」より)。
問題:○○○に入る川の名、●●に入る山の名を考えてみてください。
ちなみに明治三十四年十二月十日、栃木県から出てきた一人のじじいが、帝国議会開会式終了後、帰御される天皇の行列の前に飛び出して直訴状を差し出さんとして警備の警官たちに取り押さえられた。
結局じじいは狂人ということで釈放されたのでしたが、この詩は、この事件に触発されて作られた詩である。こういう詩が新聞の巻頭を飾るのである。当時の漢詩の持つジャーナリスティックな機能が明らかであろう。
古代チュウゴクにおけるそもそものはじめから、社会メッセージが漢詩の基本である。
政治的なメッセージが無いとフォークとはいえない、といわれた「フォーク」と同じですね。
メッセージが無いやつは「ニューミュージック」になり、「ニューミュージック」がテレビにも出るようになると「Jポップ」になるのだそうである。