明代の儒者のおはなし。(前回は王凝斎先生でした)
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段容思の弟子に周(しゅう・けい)というひとがおりました。ほかの儒者どもに比べれば、少々経歴の変わったひとである。
字を廷芳といい、泰州の小泉に住んだので小泉先生と呼ばれる。
彼はもと世襲の兵卒であった(「軍籍」にあった)。シナの近世で兵卒である、ということは、読書人階級とは違う「体を動かす階級」に属するということであり、違う世界から儒学者の世界に入ったひとである。
年齢二十を越えてから、はじめて四書の最初の最初、「大学」の首章
大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善。云々・・・
大学の道は明徳を明かにするにあり、民を新たにするにあり、至善に止まるにあり。うんぬん・・・
大いなるひとの学問というのは何をするのか。もとより明かなるこの徳を明晰にすることにあるのであり、人民を清新にすることにあるのであり、最高善の状態を維持することにあるのである。・・・たらなんたらかんたら・・・
という文を読み、
「ああ」
と嘆じてこの世に学ぶべきことがあるのを知ったのである。そのとき、
奮然感動。
したといい、これより独学で学問を開始した。
その後、遠く陝西・蘭州の守備兵(「戌卒」)として派遣された。
これが彼にとっては幸いした。時に段容思がこの地で学を講じていたので、これに入門することができたのです。
段は学問に興味のある兵卒が来た、という扱いで、はじめは講席の外に見学者扱いで座らせていたが、やがてその真摯な態度に注目して、他の儒生らと並んで座らせ、さらにその学問の進捗の速いのに驚き、数年の後には自らの講席の並びに座らしめたという。
やがて任満ちて陝西から郷里に帰るとき、段は先生の目を見据えて言うた。
非聖弗学。
聖にあらざれば学ばざれ。
聖人の学以外のことは学ぶ必要はないぞ。
先生は深く頷き、答えて、
惟聖斯学。
聖のみこれ学ばん。
聖人の学のみを学ぶつもりでございます。
と答えたということだ。その出身が儒者でないので、仏教、道教、あるいは文学などに目を奪われないように諭したのであるという。
郷里に戻った後にも学問を進め、やがてひとかどの儒者となった小泉先生のもとへ、あるひとから手紙が来た。差出人は呉瑾、武将として令名高く、この時期陝西の総兵(方面軍司令官)の地位にあった。その大将軍から、自分の二人の子の教育をお願いしたいので、陝西までお見え願えないかというのである。
たいへんな名誉であり、また呉にしても、そのあたりの一般の儒者に教えを乞うぐらいなら、軍人出身の先生にお願いしたい、という親しみもあったのであろう。
しかるに先生、これを固辞した。
あるひと、その理由を問うに、
総兵役某、則某軍士也、召之不敢不往。若使教子、則某師也、召之豈敢往哉。
総兵、某を役せんとせば、某は軍士なり、これを召すにあえて往かずんばあらず。もし子を教えしめんとすれば、某は師なり、これを召すもあにあえて往かんや。
将軍さまがわし(「某」は一人称)を軍役に就かせようというのなら、わしは軍人である。召集されて拒否するという道理はあるまい。一方、わしはお子さまの教師にしたい、というのなら、わしは師匠である。来い、といわれてもご命令に従うわけにはいくまい。
将軍の命令に易々と従うようなことでは、その子らに対してもおもねることとなり、師匠として彼らを一人前に教え導くことはできないであろう、というのである。
この言葉が呉瑾にも伝わったらしい。
呉は難しい顔をして聞いていたということであったが・・・。
しばらくして、
瑾遂親送二子於其家。
瑾ついに親しく二子をその家に送る。
呉将軍は、とうとう二人の子を連れて先生の家を訪れ、自ら先生に面会して子どもらを託して行った。
先生は大いに喜んで二人の子を預かったということです。
また、楽人として粛王に仕えていた鄭安、鄭寧の二人が、兵卒から身を起こして儒者となった先生の噂を聞いて、先生の弟子になろうとして楽人の戸籍から離れることを願い出、ついに許された、というのも当時有名な事件であった。
成化四年(1468)、師の段容思が小泉郷の先生の庵を訪うたことがあったが、このとき先生は留守であった。段は
小泉泉水隔煙蘿。 小泉の泉水 煙蘿を隔つ。
一濯冠纓一浩歌。 ひとたび冠纓を濯いてひとたび浩歌せん。
小泉の地の清らかな流れは、うすいもやの向こうにあ(っておまえとは会えなか)った。
しかたないから、わたしは冠のヒモをこの清らかな水で洗い(人間性を高尚にして)、一曲の歌を歌い遺しておこう。
で始まる美しい長詩を書いて、その庵に残して行ったのだった。
しかし、先生はその詩を見ることはなかった。
このとき先生は父親を伴って江南に旅しており、その帰途、
至揚子而溺。
揚子に至りて溺す。
長江最下流域の揚子江まで来たとき、乗船が沈んで溺死したのであった。
天下莫不悲之。
天下これを悲しまざるなし。
その報が至るや、天下のひとびとに悲しまない者は無かった。
特に師の段容思の、そのひとを惜しむこと、ひとしなみでなかったということである。
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「明儒学案」巻七より。近世チュウゴクは世襲型階級社会ではなく非世襲型階級社会だということになっているのですが、識字階級の外から支配階級である識字階級に入るのはなかなかたいへんなことで、これを克服した周小泉先生は各方面の尊敬を得ていた、ということです。世襲型階級社会でありながら、識字率の高さから、階級間の移動が逆に頻繁であった(例えば頼春水とその兄弟たち)といわれる我が国近世社会と比較すると興味深いところである。