王鴻儒は字を懋学といい、自ら凝斎と号した。河南・南陽のひとである。
成化二十三年(1487)の進士で、はじめ南京戸部主事となり、次いで山西の学官を勤めた。
このころ、弘治帝(在位1488〜1505)と宰相の劉大夏が政治を論じていて、たまたま人材のことが話題となった。
帝はこのとき、
如王鴻儒、他日可大用。
王鴻儒の如きは他日大いに用うるべし。
王鴻儒のような人材は、いずれ高官として使うことができるであろう。
と彼のことに言及したのだそうである。
劉大夏もこれに同意した、と劉の日記に記されているそうだ。
正徳年間(1506〜21)の初めに一度官を離れたが、同四年に北京の太学の祭酒(学長)となった。・・・が、数ヶ月にして父親が死去し、服喪した。
喪が明けると南京戸部侍郎、さらに北京の吏部侍郎と累進した。
時に権力を握っていたのは陸完であったが、凝斎はそのひととなりを憎み、
惟誠与直、能済国事。趨名者亦趨利、於社稷生民無益也。
これ誠と直のみ、よく国事を済す。名に趨る者はまた利に趨り、社稷生民において無益なり。
誠実と正直。この二つを旨とする者のみが国家の大事を成し遂げるのだ。名を得ようとばかりする者は結局、利を得ようともする。そのようなひとは、国家の存続、人民の福祉において、何の役にも立つはずがない。
と評した。
これを聞いて陸完は凝斎の失脚を謀ったが、その前に自らが失脚してしまったのであった。
次いで南京戸部尚書に栄転したが、このとき朱宸濠の乱が起こる。その鎮圧に王陽明が名を馳せた事件であるが、凝斎もその能力を傾注して働き、その心労によって、乱の終息する前に
疽発背卒。
疽(しょ)、背に発して卒す。
背中に腫れ物が出来て悪化し、死んだ。
その死を惜しむ者が多かったが、その誠実に過ぎる人柄を思えば、王事に勤しんでその途上に倒れたのも致し方ないのであろう。天文・律暦のことを考究した「凝斎筆語」の著がある。
・・・さて、凝斎が若く、まだ進士になる以前のこと。
凝斎の知人が南陽府の役所の吏員として出仕することとなった。この男は、役所で文字を書く仕事をすることから、凝斎の文字を手本にしたいと申し入れて、いくつかの字を書いてもらい、これを傍らにおいて府の仕事をしていたのであった。
ある日、府の知事がその「手本」を盗み見て、
奇之。
これを奇とす。
これは大したものだ。
と感心し、吏員に訊ねたところ、王鴻儒という若者の字であるという。
府知事は早速席を設けて凝斎を招き、一見して
子風神清徹、豈塵埃人物。
子、風神清徹なり、あに塵埃の人物ならんや。
なるほど。おまえさんは、風情や精神が清らかで透徹している。世間で汚れた人生を送るような人物ではなさそうじゃな。
と言うて、自らの家に住まわせて援助と教育を行ったのである。
この府知事が段容思である。
だから凝斎は段容思を通じて薛敬軒の学流につながるひとなのである。
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「明儒学案」巻七より。