平成21年 8月24日(月)  目次へ  前回に戻る

雨上がりの昼下がり、心地よく散歩しながら、わしは歌うていた。

風清雲浄雨初晴。  風清く雲浄く雨初めて晴る。

南畝東阡策杖行。  南畝(なんぽ)東阡(とうせん)、杖を策(ひ)きて行く。

幽鳥似知行楽意、  幽鳥 行楽の意を知るに似たり、

緑楊煙外両三声。  緑楊煙外、両三声。

 風はすがすがしく雲はすっきりして雨はようやく上がった。

 南の堤、東のあぜ道、・・・田園を杖を引きずり散歩する。

 この楽しみを理解したのだろうか、姿も見せずに小さな鳥が、

 緑の楊の向こう側、もやの中で二度、三度と鳴き声をあげたのだ。

ああ、ぽむぽむ。

わたしがこうやって山里暮らしになってから、もう●年になります。宮仕えしていたころを思い出そうとしても、もう遠い夢のようでよくは思い出せませんよ・・・。

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ちなみに、この詩は実は、明の段容思先生の七言詩である。容思先生は段堅、字は可久というて、永楽十七年(1419)、蘭州に生まれた。

十四歳のとき、故郷に近い陳候山の明倫堂に学んだが、その堂上にこんな銘が刻まれていたそうだ。

群居慎口、  群居しては口を慎み、

獨坐防心。  獨坐しては心を防げ。

みなとともに語るときには余計なことを言うなかれ。

ひとり思うときには悪しきことを考えるなかれ。

これを見て、生涯にわたり聖人の学=儒学を究めようと思ったのだそうである。

正統九年(1444)、推薦されて都の太学で学んだが、十四年(1449)にいわゆる土木の変に遭会し、過激な上申書を提出したが回答無く、太学を已めて山東から杭州まで旅に出て、多くの学者たちと交わりを結んだ。

このとき、閻子与と知り合って、薛文清の学問と人となりを知ったのである。以降、一度も薛文清に逢ったことは無いのだが、その学問に私淑して、弟子礼を執り続けた。

景泰五年(1454)、進士となるがすぐには職に就かず、帰郷してなお五年間、読書と自己研鑽の日を過ごし、ようやく福山県知事となった。県人の気質は決して従順なものではなかったが、

以絃誦変其風俗。

絃誦を以てその風俗を変ず。

琴を爪弾き歌を歌って、(文化に親しましめ)だんだんとその風俗を変えて行った。

このころ人に語って、

天下無不可化之人、無不可変之俗。

天下化すべからずの人無く、変ずべからずの俗無し。

この世界に、感化させられないニンゲンはいないし、変化させられない風俗も無いはずだ。

と言うていたが、六年にしてようやく治績上がったという。

後、南陽府知事となり、志学書院を建てて朱子の学問を普及させることに努めた。

帰郷後、成化二十年(1484)、卒。年六十六。

先生、晩年に口癖のように言うていたことは、

学者主敬以致知格物、知吾之心即天地之心、吾之理即天地之理。吾身可以参賛者在此。

学者、主敬以て知を致し物に格(いた)らば、吾の心すなわち天地の心、吾の理すなわち天地の理なるを知る。吾が身以て参賛すべきものはここに在り。

諸君、「敬(つつし)み」の心を主として、一件一件の物事について知恵を尽くして学んで行くならば、自分の心はそのまま天地の心であり、自分にそなわった理性がそのまま天地の摂理である、ということがわかってくるはずじゃ。ひとが、自ら天地に並ぶ第三の主体として、世界の生成展開に参加する、というのは、まさにそのことなのだ。

というのである。

まことによく薛文清の教を継ぎ、朱子の学を守ったというべきであろう。

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「明儒学案」巻七より。ちょっと好き嫌いがわかれるタイプのひとかも知れませんな。

 

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