平成21年 7月28日(火)  目次へ  昨日に戻る

今週から毎火曜日は、薛敬軒の弟子たちを紹介する。

●閭禹錫、字・子与

洛陽の生まれである。

十九歳のとき、正統甲子年(1444)の郷試に合格し、以降、各地方の訓導(教職)を歴任した。この間、母親の喪に服すること厳格で、朝廷からその家の門に「孝子の旌(旗じるし)」を立てることを許されたほどであった。

薛敬軒(文清公)の評判を聞いてその門に入り、各地での教育には敬軒の教え(すなわち宋学)を活用して、多くの学生を教化した。国子学正(国立大学教授)に薦められたが、ここで微細な罪があって一時期、徽州に貶せられていたことがある。後に南京国子学の助教(副学長)となり、さらに教育職から離れて、官吏の服務を監察する御史となり、晩年は畿内の学政を総督する地位にあった。

成化丙申年(1476)に卒している。

彼は宋儒の学問をひとびとに講じて

使文清之学不失其伝者、先生之力也。

文清の学をしてその伝を失わざらしめしは、先生の力なり。

薛文清公の学問が後継者に伝わって行ったのは、先生がいろんなところでそれを教えたからである。

と称された。

しかし、あるひとが文清公に先生のひとがらを問うたとき、

洛陽似此人也難得。但恐後来立脚不定、往別処走。

洛陽に此の人のごときや得難し。ただ恐る、後来立脚定まらず、往きて別処に走らんことを。

洛陽の町で他に彼レベルの人物を見つけるのは難しいだろうな。しかし、彼は後々、足場が固まらなくて、どこかとんでも無い境地に行ってしまいそうで、心配じゃのう。

と評したといい、閭先生はそのことを人づてに聞いて、自らの言動にさらに注意したということである。

そのひととなりに、どこか不安定なところがあったのであろう。

●張鼎、字・大器。

陝西の咸寧のひとである。

成化丙戌年(1466)の進士で、太原府知事、河南按察使などを勤め、弘治年間(1488〜1505)の初めには都御使(首都検察官)、戸部侍郎(民事省審議官)などを歴任したが、同八年(1495)に亡くなった。六十五歳。

先生は少年時代、父親の任地の関係で山西に帰郷していた薛文清公に入門し、以降老年に到るまで

終身格守師説、不敢少有逾越。

終身師説を格守し、あえて少しくも逾越せず。

師の学説を厳格に守り、少しだけでも越え出ようなどということはなかった。

という誠実なひとであった。

文清公が亡くなった後、各方面に連絡をつけてその遺稿を収集し、文集を編纂したのは、張先生である。

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いずれも「明儒学案」巻七より。

 

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