7月14日の続き。
薛敬軒先生の思想について。
先生の学問は「読書録」という著書に述べられているが、「性に復する」(本来の人間性に帰る)ことを宗とし、朱子学に結実する宋学の考えに深く同調するものであった。
したがって、世界は「理」と「気」の二元より成り、理を離れた気も無ければ気を離れた理も無い、ということを強調した。
その考えを説いたのが有名は「日光・飛鳥」の喩えである。
●理如日光、気如白鳥。理乗気機而動如日光載鳥背而飛。鳥飛而日光雖不離其背、実未嘗与之倶往。
理は日光の如く、気は白鳥の如し。理の、気の機に乗じて動くこと、日光の鳥の背に載りて飛ぶが如し。鳥飛びて日光はその背を離れずといえども、実にいまだかつてこれとともに往くにあらず。
理(すじみち)は日光のようなモノで、気(物質的なるもの)は白鳥である。理は、気のはたらきに乗っかって活動する。これは、日光が鳥の背中に乗って飛んでいるのと同じようなことだ。鳥は飛ぶ。日光はその背中から離れていない。しかし、実は鳥とともに移動しているわけではないのである。
しかし、だからといって、鳥の背中と日光の間に、何かが挟まっているわけでもない。鳥と日光は別物でもないのである。
・・・というようなことばかり考えていると疲れてしまいます。先生は疲れてしまわなかったのでしょうか。
ほかにも二、三条、「読書録」を読んでみましょう。
●湖南靖州読論語、座久仮寐。既覚神気清甚。心対浩然。若天地之広大、蓋欲少則気定、心清理明、其妙難以語人。
湖南・靖州にて論語を読むに、座すること久しくして仮寐(かび)す。既に覚むるに神気清きこと甚だし。天地の広大の若きも、蓋し欲少なれば気定まり、心清く理明かにして、その妙以て人に語り難し。
湖南の靖州にいたとき、論語を読みながらじっと座っていたら、居眠りしてしまった。目が覚めると、心が爽やかなること甚だしかった。天地の間の広大な世界も、欲望を少なくすれば体質も落ち着き、精神は清らかに、本来のすじみちもはっきりとしてくるのである。そのステキなこと、言葉で言うのは難しい。
・・・それは一眠りしたから、ではないんでしょうか。
●二十年治一怒字、尚未消磨得尽。以是知克己最難。
二十年、一怒字を治むも、なおいまだ消磨し得尽くさず。ここを以て知る、克己最も難し、と。
二十年間、「怒り」ということの無いように自らを修めてきたつもりだが、なおいまだにその感情を消しつくしたとはいえない。これを考えると、自分を克服する、というのは、(どんなひとに勝つよりも)最も難しいことなのだ、ということがわかるのである。
・・・二十年ではムリだったのでしょう。
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難しいことを考えているとだんだん頭がぐるぐるしてくるので、今日のところはこのへんにしておきましょう。「明儒学案」巻七より。