7月7日の続き。
英宗のクーデタは
「英宗復辟」(英宗が再び帝位についた)
といいます。
もともと英宗は宣徳帝の後を継いで1435年に即位し、翌年、正統という年号を建てた。明朝は「一世一元」制度をとっておりましたので、英宗はその年号をとって「正統帝」ということになります。ところが、正統帝は、その十四年(1449)、自ら軍を率いてオイラート族を討ち、戦略的失敗を仕出かしてオイラート族の捕虜になってしまった。これを帝が捕らえられた場所の地名をとって「土木の変」と申しますが、この事件によって明朝には皇帝が存在しなくなってしまった。正統帝は皇太子も定めていなかったため、このままでは国が滅びてしまう・・・。
そこで、一部の忠臣たちが決断して、正統帝の弟にあたる代宗を建てた。これが景泰帝である。
この景泰帝のとき、オイラートは、捕虜にしていた英宗を返還してまいりました。なかなかみごとな外交戦略である。明朝はこの後、英宗派と景泰帝派の間の陰湿な派閥闘争に入り、ついに1456年に英宗派がクーデタを敢行して、英宗を再び帝位に就けた。これが「英宗復辟」であり、翌年、天順という年号が建てられます。
そして、英宗派(天順帝派)は、土木の変に際して明を亡国から救った功臣である景泰帝派の重臣たちを次々に捕らえ、一族誅滅などの重罪に処しはじめた。
このとき、廟堂において、
「これはどう考えても、おかしゅうございましょう」
と堂々と意見を表明したのは、薛敬軒先生だけであったのである。
「彼らは我が朝の恩人でありこそすれ、罪に問われるようなことは全くしておりませぬ」
敬軒は内閣の大臣たちをぎろりと見て、言うた。
此事人所共知。各有子孫。
このこと、ひと共に知るところなり。各々子孫有らん。
「そのことは、誰もがみな知っていることではござらぬか。みなさんにも子孫がおありであろう。
ここではっきりと意見を申し述べておかなければ、いずれ当局者が変わり、今の状態が「歴史」になって、客観的な見地から正義のあるところが判断されるに至ったとき、みなさんはどうやって子孫に対して今日の態度を説明するつもりなのでござるかな?」
その気魄に気おされて居並ぶ閣僚たちは押し黙ったが、英宗即位のクーデタを指導した石亨がついに口を開き、
事已定、不必多言。
事すでに定まれり、必ずしも多言せざれ。
「もうそのことは決まっているのじゃ! ぶつぶつとしゃべりまくるでないわ!」
と一喝して、廟議は終わったのであった。
その晩、廟議のことを聞いた皇帝は、敬軒だけを呼んで意見を述べさせた。
敬軒は
「陛下が再び帝位に就かれたのは天命であり、天・地・人の三つの場に、寿ぎの陽気が兆しております。どうぞ重い刑罰を施すことはお止めくだされ」
と奏上した。
ややあって皇帝からは、一部の功臣への刑罰を一等減じる旨の沙汰があり、先生、その沙汰の後で私邸に退き、嘆じて曰く、
殺人以為功、仁者不為也。
殺人を以て功と為すは、仁者なさざるなり。
「ひとを殺してそれを手柄にしようという輩がおる。まともな人間の考えることではないぞ。」
と。
さて、先生は天順年間の初期、朝廷の良心派の長老として重んぜられたが、あるとき、皇帝に対して奏上ごとをした際に、
誤称学生。
誤りて学生を称す。
本来、「臣・瑄おもうに・・・」といわねばならないところを、誤って「学生・瑄おもうに・・・」と自称してしまった。
KY(漢字読めない)とかIM(言い間違い)というやつをしてしまったのです。
(当時も)実態の政策については意見を言う能力は無いが、「いい間違い」や「読み間違い」を指摘するのは得意、というニンゲンは多かったのでございましょう、皇帝の左右に侍する書記は、先生のいい間違いに気づくと、ただちに公式記録の中に「薛瑄、遂に衰えたり」と記録したのである。
先生もまた、当時、曹石なるものが重用されつつあり、その人柄を信頼しなかったこともあって、
「もはや
非行道之時。
道を行うの時にあらず。
まともなことが通るような時勢ではないようじゃ」
と知って、隠退した。
家居すること八年、多くの弟子がそのもとを訪れたが、天順八年(1464)六月十五日、ついに卒した。
年七十六歳。
辞世の句あり。
七十六年無一事、 七十六年 一事無く、
此心始覚性天通。 この心はじめて覚る、性は天に通ず、と。
七十六年間、何事を為すでも無く過してきたが、
今になってようやく、人間の本来の精神は大宇宙と通じているのだということに気がついた。
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「明儒学案」巻七より。