6月16日から続く。
薛敬軒先生は死罪を求刑され、一審で求刑どおり死罪の判決が下りました。
ただ、前近代のチュウゴクでは、死罪については皇帝まで奏上され、皇帝は死罪の奏上を受けると、上奏者(内閣大学士=宰相)に対して
@ 「かわいそうである。考え直せ」とつき返す。
A 宰相は司法担当者と「うーん」と考える。
B 死罪を止めることになればそれでいいのですが、やっぱり死罪しかないよな、ということになりますと、再び皇帝に「死罪」の上奏をする。
皇帝がこの奏上を受けると、
C 「かわいそうである。考え直せ」とつき返す。
D 宰相は司法担当者と「うーん」と考える。
E 死罪を止めることになればそれでいいのですが、やっぱり死罪しかないよな、ということになりますと、再び皇帝の「死罪」の上奏をする。
皇帝がこの奏上を受けると、
F 「まあしようがないか」と言って認める。
という手続きを経なければならないという習慣になっておりました。
薛敬軒については、この手順がEまで終わり、ついにFを待つばかりとなった。
その晩、
振有老僕者、山西人也。
振に老僕者あり、山西人なり。
権力者・王振のもとには年老いた召使がいた。彼は(王振とも薛敬軒とも同じ)山西の出身であった。
この老いた召使が、
泣於竈下。
竈下に泣けり。
厨房のカマドの陰で泣いていた。
王振は、同郷で若いころからずっと従ってきてくれている老召使が泣いているので、
「どうしたのじゃ」
と声をかけた。
すると、召使曰く、
――薛夫子さまが刑せられると聞いて泣いておりますじゃ。
「薛夫子? 誰じゃ、それは」
――薛敬軒どのでございます。わたしども山西の同郷者の間では、孔子のような人徳者ということで「夫子」と呼んでいるのでございます。
そうして、彼の日常が如何に立派なものであるかを説明した。
王振はそれを聞いて、自分がそのような立派な人間を死罪にしようとしていることにしばらく茫然とし、次いで、
「いや、まだ間に合う」
と言うと、すぐに宮中に上がり、薛敬軒の罪を減じる提案を上奏した。
皇帝は好きで死罪にしようとしていたわけではないので、その上奏はすぐに嘉納され、敬軒は罪一等を減じられ、辺境で兵役に就くことにされたのであった。かくして死罪を直前で許された敬軒先生は、辺境の兵役も数ヶ月で免ぜられて、実家に戻されました。
・・・・・・後に景泰年間(1450〜56)になって、敬軒を陥れた王文が謀叛の罪に問われたとき、敬軒はわざわざ上奏文を書いてその無実を論じた。そのことを聞いた王文は苦笑して、
此老屈強猶昔。
この老、屈強なること昔のごとし。
あの方は、時の権力を怖れずに歯向かいますなあ。ちっとも変わっておらん。
と言うたそうである。
敬軒は景泰の初めごろ、南京府に属する役職に就いていたのであったが、あるとき、中官(宦官)の金英が景泰帝の旨を受けて南京にやってきたことがあった。
皇帝お気に入りで有能で名高い金英さまのお成りだというので、南京府の役人たちは総出で長江の河畔に宴を張ってもてなしたのであった。
このとき、金英は南京府の役人の名簿を片手に、迎えてくれたひとたちの名前を確認して印をつけていた。出席した役人たちは、「宴会に来た甲斐があったわい」と喜んでいたのであった。
この金英の名簿には、最後まで敬軒のところにだけ印がつかなかった。彼は宦官に阿るのを恥じて、宴会に来なかったのである。まわりの者たちは敬軒が何かの嫌がらせを受けるのではないかと心配した。
しかし、帰朝すると金英は早速皇帝のところに復命し、あわせて、
南京好官、唯薛卿耳。
南京の好官、ただ薛卿のみ。
「南京府の役人どもで、公平無私なのはどうやら薛どのだけでございますぞ。
彼は権力に阿ることなく、自分を飾ることがございません」
と上奏したのであった。
かくして、景泰三年(1452)には北京に呼び戻され、再び大理寺正卿の職に就いた。
ところがその数年後、英宗のクーデタが起こりましたのじゃ・・・(続く)
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また言うまでもないことじゃが、「明儒学案」巻七より。