平成21年 7月 8日(水)  目次へ  昨日に戻る

戦国時代のことです。斉王の食客の中に、画師がいた。

彼に対して、

斉王問曰、画孰最難者。

斉王問うて曰く、画くにいずれか最も難き者ぞ。

斉王が質問して言うた。

「絵に描くのに、最も難しいものは何じゃね」

@    イヌとかウマ

A    バケモノ

B    美女

C    おまえさん

D    ノーコメント

さて、いずれでしょうか。

画師答えて言う、

犬馬難。

犬馬難し。

「そうですなあ、@のイヌとかウマですな」

また問う、

孰最易者。

いずれか最も易き者ぞ。

最も簡単なものは何じゃね。

答えて曰く、

鬼魅最易。

鬼魅(き・み)最も易し。

Aの精霊、バケモノの類が一番簡単ですね。

「なぜかといいますに、

夫犬馬人所知也。旦暮罄於前。不可類之。

それ犬馬はひとの知るところなり。旦暮に前に罄(かか)る。これに類すべからず。

かのイヌとかウマはみなさまのよく知っておられるものでございます。朝に夕べに、みなさまの眼前に見えておる。その実物に似せるのはなかなか大変なのだ。

だから難しいのでございますよ。

一方、

鬼神無形者、不罄於前。

鬼神は無形なるもの、前に罄(かか)らず。

精霊とか神霊はもともと目に見える形などございませぬ。みなさまの眼前に見えているわけではない。

だから簡単なのでございますよ」

「なるほどのう」

と王は頷くことしきりであった。

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「韓非子」巻十一・外儲説左上より。

人口に膾炙したお話なので、あんまり有名でみなさんは日常会話でも使い込んでおられることでしょう。ご紹介するだけムダでしたネ。

ただし、見鬼者、という精霊や霊魂の見えるひとがいることについては、このHPでも何度も触れた。画師のいうこと、当らぬかも知れぬ。

ちなみに「罄」(ケイ)は「器(字の下部の「缶」(フ))の中がからっぽである」であることを意味し、「むなしい」「尽きる」の意の字であるが、ここでは「繋」と同じで「懸かる」「懸けられて目の前に見える」の意に使われているのである。

 

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