池北偶談(巻二十二・談異三)にいう。
某宰相の家は宰相の死後傾き、孫の代になると田畑・屋敷はもちろん、蔵書や骨董の類も失って、ついに縁戚知人を訪ねて衣食を乞うまでに落ちぶれた。
あるときこの孫、代々の知友の家に出向いて米を乞うた。
重々のことである。さすがに累代の友誼あるその家でも、ようやく一斗少々の米を乞い得たにとどまった。
しかしそれでも彼は意気揚々として米を背負って家路に着いた。
帰途無力自負、覓一市傭代之。
帰途、自負に力無く、一市傭を覓(もと)めてこれに代う。
帰り道、自ら負っていくのに疲れ、賃金を払って荷運び人夫を求めて、これに背負わせることにした。
さて。
財に乏しきは貧ではない。才智に乏しきも愚ではない。まことに貧にして愚なのは、自分より立場の強い人と見ればへりくだり、立場の弱い人と見れば居丈高になるような、志も節操も無い人間である。
このひと、僅かな端金で雇いながら、荷運び人夫がふらついているのを見て、
「おい、
吾生相門、不能肩負、固也。汝傭也、胡為亦爾。
吾は相門に生ずれば、肩負あたわざるは固なり。汝は傭なり、なんぞ亦しか為すや。
わしは宰相の家に生まれたのじゃ、物を担ぐことができなくても当たり前である。しかし、お前は賃金で雇われる人夫ではないか。それがそんなにふらふらしていてどうするのだ?」
と叱りつけた。
すると、人夫、ぎろりと睨んで言う、
吾亦某尚書孫也。
吾もまた某尚書の孫なり。
「わしも某という大臣の孫なのだ。」
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明末清初の社会混乱を経ていることもあるのでしょうが、近世になると非世襲型身分制社会であったチュウゴクでは社会変動が激しかったのです。かなり流動的だったとはいえ世襲身分制を持っていた日本近世とは比べものになりません。
ちなみに、筆者の漁洋山人・王阮亭は
聞諸董蒼水孝廉者。
これを董蒼水孝廉なる者に聞けり。
この話は、科挙の地方試験合格者の董蒼水さんにお聞きしたのである。
と書いている。
華亭の董蒼水先生といいえばこのHPではおなじみの方です。人間関係があったのですなあ。