肝冷斎よ、一週間、よく生き延びたのう・・・。
週末になった。
明日はミサイルが落ちてくるかも知れませんが、まあいいや。という気持ちです。週末になると、何か怪しげなモノに騙されているのではないか、というぐらい気持ちがのどかになるのです。心のどやかに怪しげなモノの話でもいたしましょう。
・・・今を去る三百五十年ぐらい前、陝西の同州・澄城県というところに、雪野と名乗る僧侶がいたそうである。
さらに西の方から流離ってきた、といい、寺院に住職することなく、弟士と称する男たちに取り巻かれながら、何棟もの空家を借りて布教していた。
雪野自身は、見たところはまだ青壮と見え、頬のふくらみなど艶かしいほどであったが、言うところによればもう齢は八十という。
この僧団は月に数度、集会を開いたが、そこでは怪しげな儀式が執り行われ、ひとびとは
倡乱。
倡(とな)え乱る。
一心に聖語を唱え、やがて半狂乱となる。
これによって病の癒えたひとびと、あるいは明日への活力を得たひとびとも多かったが、その間には淫らなこともあったらしいし、また多額の布施を求めるなどのこともあって、悪く言うひとが多くなった。このため、ついに官の取り締まるところとなり、捕り手の兵卒が僧団の住居を囲み、雪野を呼び出してその身柄を確保したのであった。
雪野は大人しく捕まり、そのまま県の役所に連行されてきた。
評判の美僧・雪野が捕えられた、というので、県庁の回りにはかなりの見物が出、県令も門前まで出迎えるという騒ぎになっていた。その中を連行されてきた雪野、噂どおりに美しい顔かたちであったが、見物の衆をぐるりと見回し、さらに県令の姿を認めると、にこりと微笑んだ。
「おお」
その笑顔の艶やかさに見物の者から嘆息がもれるほどであったが、ひとびとはその美しい顔だけでなく、また不思議なものも目にした。
将到、随身有黒雲一片。
まさに到らんとして、身に随うに黒雲一片有り。
県庁の門をくぐろう、というときに、僧の身には、小さな黒雲がつきしたがっていたのだ。
「あれはいったい・・・」
とひとびとが指差し、疑問を口にするか否かのうちに、黒雲はぐんぐんと大きくなり、たちまちのうちに
覆罩県庭、大風刮目、冰雹乱下。観者皆走避。
県庭を覆罩(ふくとう)し、大風目を刮し、冰雹乱下す。観者みな走り避く。
県庁の中庭(法廷にもなる)に立ちこめ、さらに空を覆いはじめたので、あたりは真っ暗になり、次いで強風が吹き来たって目を開けていられなくなり、さらに雹が激しく降り始めたのである。見物のひとびとは争って逃げ出した。
しかし、その雹と風を引き裂くように、
「慌てるな!」
という県令の大声が響き渡った。
「雪野、おのれの術のごとき、見破れぬわしと思うたか!」
と同じ声が聞こえたかと思うと、県令はあらかじめ用意していたものか、
黒狗一、斑牛一。
黒いイヌ一匹と、まだらの牛一頭。
を門内から引き出して、雪野にけしかけた。
すると、
黒雲随散。
黒雲随いて散ず。
黒い雲は、その二つのケモノに引き裂かれるように消えて行った。
そして、混乱に乗じて逃げ出そうとしていた雪野はイヌとウシに取り押さえられていた。
雪野は凄い顔をして県令を睨みすえていたが、化粧がはげて、中年男の肌合いになっていたそうである。
この県令の名が伝わらないのは残念なことであるが、もともと雪野が妖術を使うことを予想して、その術が効かぬよう、イヌとウシには
雑以穢物、将血遍塗之。
穢物を以て雑えて、血を将(も)ちいてこれに遍塗せり。
排泄物を混ぜた血をまんべんなく塗りつけておいたのだ。
ということである。
順治年間(1644〜61)の終わりころのことである。
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董蒼水先生の「三岡識略」(続識略巻上)より。
昔の東洋は栄えていたので、このような術を使えるひとがごろごろいたのでしょう。それにしても、身は上海の松江に棲みながら、陝西のこんな情報を入手して記録してくれた蒼水先生のご尽力には頭が下がる。先生が記録しておいてくれなければ、極東の後学のわたしなどは、チュウゴクではこのような術士の争いが日ごろから行われていたのだということを、知るよしもなかったであろう。