土曜日は好き。ミサイル落ちてきても土曜日なら・・・。
唐の洛陽郊外にあった北坡(ほくは)という荘園でのお話である。(同荘は相国・張文蔚の所領であったという。)
北坡荘には以前より「鼠狼」というドウブツが住んでいた。形はネズミであるが、大きさはイヌかネコほどもあり、荘園の人民からは「鼠狼さま」と呼ばれ、尊崇の対象となっていた。(肝冷斎按ずるにこれは「鼬」(ユウ。いたちのこと)である。鼬はよく鼠を捕らえるため、ネズミにとってはオオカミのように恐ろしいドウブツだ、ということで「鼠狼」と呼ばれたのである・・・と「本草綱目」にある。)
このころ、荘園の西の外れの山際に、つがいの鼠狼さまが穴を掘って住んでおられたので、荘内ではそのあたりを「鼠狼穴」と呼び、無知な荘民どもはその巣穴の前に供え物をしていた。その鼠狼さまの夫婦に、この春めでたく四匹のお子さまがお生まれになられたのであった。
一方、荘園には一匹の大蛇が住んでいた。
いつのころから住み着いているのかも知られぬのだが、こちらは荘民たちから怖れられはしたが尊敬されることはなく、害を為すものとして憎まれていた。鶏の卵や鶏そのものを盗むのは日常のこと、時にはブタほどの大きさのドウブツも絞め殺して食ってしまう。ニンゲンの子供も、この大蛇に襲われて死んだものがあったという。
ある日。
ああ、なんということであろうか。
この大蛇が、「鼠狼穴」のあたりで遊んでいた鼠狼さまのお子さま四匹を丸呑みにして食ってしまいやがったのだ。
子供を一度に食われてしまった鼠狼の夫婦の嘆き悲しむ声、しゅうしゅうとして山野に響いた。
荘民たちは、
「ああ、
鼠狼雄雌情切。
鼠狼の雄雌、情切なり。
鼠狼さま夫婦のお悲しみ、胸に響くものがあるわい」
「それにしても憎いはあの大蛇めよ」
と話しながらも、鼠狼の声のあまりの悲しみ深げであるゆえに、「このままではすまぬじゃろうな」と予感しあっていた。
鼠狼夫婦はしゅうしゅうと嘆き悲しみながらも、大蛇の巣穴を探し出し、その巣穴から少し出たところに、粘土を固めて作った環を取り付けて、大蛇の出て来るのを待った。
蛇は巣穴から出てくると、ちょうどその環の間に頭が通り、そのまま山肌を下ってこようとしたのであるが、腹のある部分まで環を通り抜けると、そこで環につかえてしまった。その部分は蛇の胃袋のところであり、四匹の鼠狼の子を食べたのがまだこなれていないので、環を通り抜けられなかったのである。
物陰でこれを見ていた鼠狼の夫婦は、突然、大蛇に飛びかかり、その環につかえた膨らんだ部分に噛み付いた。
蛇は、
度其回転不及、当腰齧断。
その回転を度るも及ばず、腰に当りて齧断さる。
体をひねって払いのけようとしたが、環のところが地面に固定されてしまっているため抵抗しきれず、ついに腰のところで齧り切られてしまった。
齧り切られた前半部と後半部はそれぞれ独立してのたうち回っていたが、鼠狼の夫婦は
劈蛇腹、銜出四子。
蛇の腹を劈き、四子を銜え出だせり。
(後半部の)腹を引き裂いて、胃袋から四匹の子供たちを咥えて引きずり出した。
四匹のうち二匹はもうどろどろに溶けていたが、二匹はまだ息があり、夫婦はこれを
置於穴外、銜豆葉嚼而伝之、皆活。
穴外に置き、豆葉の嚼みしを銜えてこれに伝え、皆活せり。
穴の外に置いて、豆の葉を咥えとってくると、これをよく噛み砕いて二匹に口移しで与えたところ、二匹とも生存した。
この二匹の鼠狼は、耳や鼻や瞼が泥のように溶けたままで生き延びたので、その後長く「泥鼠狼さま」として、荘民たちからはほとんど神のように崇められたという。
さて。どうですかな。
何微物而有情有智若是乎。最霊者人、胡不思也。
なんぞ微物にして情有り智有ることかくの如きなるか。最も霊なる者は人なるも、なんぞ思わざるか。
どうして、鼠狼はニンゲンより小さいものであるのに、親子の情もあり復讐・治療のための智恵もあること、これほどであるのだろうか。ニンゲンはドウブツ中において最も霊的なものを持っているはずなのであるが、このことを見聞きして考えることは無いものであろうか。
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五代〜北宋の孫孟文「北夢瑣言」巻十二より。やっと同書読み終わる。二ヶ月かかった。
「え? お読みになられた?
それはご苦労なことでございましたなあ」(本人談)