諸君。仏郎王を知っているか。
わたしは今、仏郎王という王様のことを歌おうと思う。
仏郎王ははるか西の国に生まれ、
太白鍾精眼碧光。
太白 精を鍾(あつ)めて眼は碧光。
いくさの神である太白星の精を集めたのか、その目は碧かった。
魏武侯・曹操と戦った、紫の髯、青い目の呉王・孫権のように。
いくさの神の申し子というべき仏郎王は軍略に秀で、周囲の地をカイコが桑の葉を食うように侵略し、崑崙山に国都を置こうと東に軍を進めた。
彼の軍は国内の遊び人たちから成り、彼らには妻子無く、まことのいくさ人であったという。
その武器は長い棒だが、時にはこれを縮めて銃と為し、白兵すればこれを伸ばして槍とする、不思議な兵器であった。槍が前に出るときは銃が後ろに下がり、兵士らはこれを持って突進するのだ。(この記述、あるいは銃剣のことを言うか)
所向無前血玄黄。
向かうところ前無く、血は玄黄。
この軍隊が向かうところには阻むものなく、そこには青黒い血が流れるばかりだ。
「玄黄」というのは「易・坤卦」にいうところの、群竜が戦ったとき流された血の色である。
だが、この無敵の軍の前進をさえぎる宿敵があった。奸雄・鄂羅侯である。
鄂羅侯ははじめ、仏郎王のもとに密かに間諜を遣わし、その不意を狙って刺殺せしめんとした。
しかし、
王覚故与之翺翔、 王覚りて故にこれと翺翔(こうしょう)し、
能刺刺我不能亡、 「よく刺さば我を刺せ、されど亡ぼすあたわざらん、
汝主何不旗鼓当。 汝が主、何ぞ旗鼓もて当たらざる」
仏郎王はそれに気づき、刺客と鳥のように飛び跳ねながら戦い、
「おまえがわしを刺せるなら刺してみるがよい。しかし、そんなことでわが国を倒すことはできないだろう。
帰っておまえの主人に言うがよい、どうして旗を立て軍鼓を鳴らして堂々の陣を以て戦おうとしないのか、と」
「翺」(コウ)も「翔」(ショウ)も「飛ぶ」「翔る」の意。
こうして王は軍を進めて鄂羅侯の軍と五たび戦って五たびこれを打ち破り、
鄂羅如魚泣釜湯。
鄂羅、魚の如く釜湯(ふとう)に泣く。
鄂羅侯はもはや、鍋の魚のように絶望に涙するのみとなった。
北国で籠城するだけとなったその戦況は、賤ケ岳に敗れた後の柴田勝家を思わせしめた。
ああ、ところが、
何料大雪平地一丈強。 何ぞ料らんや大雪、平地に一丈強。
王馬八千凍且僵。 王が馬は八千、凍え且(ま)た僵(たお)る。
どうしてそのことを予想しえたであろうか。このとき大雪降り、平地にさえ一丈余(数メートル)も積もったのだ。
仏郎王の軍馬八千はみな凍え、次々と倒れていったのであった。
補給路は寸断され、倒れた馬の肉を兵士と分かち食べたが、それも乏しく、
王曰、
天不右仏郎。
我活吾衆降何妨。
王曰く、
天、仏郎を右(たす)けず。
我、吾が衆を活せんとして降るも何ぞ妨げんや。
王は言うた。
天はわが仏郎国に味方してはくれなかったようじゃ。
この上はこれ以上おまえたちを死なせないように、降伏してわし一人の命を以て償いとしようぞ。
王の胸には、十万の若者を引き連れて故郷を出陣し、その三人しか生きて帰らせることができず、郷里の父老たちに何の面目を合わすことができようか、と嘆いて討ち死にした楚の覇王・項羽のことが過ぎったのであろうか。
王は側近が止めるのも聞かず、
単騎降敵、敵不敢戕、
放之阿墨君臣慶。
単騎敵に降るも敵はあえて戕(ころ)さず、
これを阿墨に放ちて君臣慶す。
ただ一騎、宿敵・鄂羅に降ったが、かつてその命を狙った鄂羅侯も、王のいさぎよい態度に感激してこれを殺すことは無く、
遠い阿墨(あぼく)の地に流しただけで、鄂羅侯と臣下らは祝賀の杯を挙げたのだった。
――――――さて。
わしは、戊寅の歳、西の国の港町に旅をした。
このとき、その港町には、さらに西方から来た医師があって、そのひとからこのことを聞いたのである。
医師は白いヒゲをびしびしとしごきながら、
「わしは、自らこの仏郎王と鄂羅侯の戦いに従軍し、兵士らの銃創を治療した。馬を食いながら雪の中を敗走し、王の降伏によってそれ以上の追及が止んで、命を永らえたこと、今も忘れられぬ」
という。
そして、わしに言うのである。
君不見何国蔑有貪如狼。
勇夫重閉貴預防。
君見ずや、いずれの国か貪ること狼の如きもののある蔑(な)からん。
勇夫重く閉ざして預防を貴ぶ。
おまえさん、よく目の玉開いて世の中を見てみるがよいぞ。一体世界のどこに、オオカミのように貪欲なものがその平和を侵そうと狙っていないというような国があろうか。
勇気ある武人が国境を堅く守って、あらかじめ攻めてくるのを防ぐのが大切なのじゃ。
又不見禍福如縄何可常。窮兵黷武毎自殃。
また見ずや、禍福は縄の如く何ぞ常あるべけんや。兵を窮め武を黷(けが)すはつねに自ら殃(わざわい)すなり。
また、このことも知っておくがよかろうさ、悪いこととよいことは捩って作られた縄のようなもので、それぞれがそれぞれの原因になるものなのだ。軍略を窮め尽くし、(ほどよいところで止めるという)武力の本当の使い方を間違ってしまうと、それがすでに災いのもとであり、圧倒的な勝利の中には、敗北が始まっているのだ、ということなんじゃ。
わしは思う。
現在、この東アジアはまことに平和に見えるのである。
しかし、
何知殺運被西荒。
作詩記異伝故郷。
何ぞ知らんや殺運の西荒に被るを。
詩を作り、異を記して故郷に伝えん。
誰も知らないうちに、西の果ての世界では破壊と殺戮の運気が滞っているのである。
このことを、この詩に作って世界の怪事のあらましを記し、太平に眠るふるさとの人々に伝えようと思う。
おお、それにしても何ということか、この殺気は。
わしがこの詩を記した紙を嚢に納めたところ、その嚢の口からは、まだふつふつと破壊と殺戮の叫びがほとばしり出てくるのだ。
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山陽外史・頼襄「仏郎王歌」。
オモシロかったので「通関文」も訳さずに、ついつい読み込んでしまいました。
戊寅(つちのえ・とら)の年、というと・・・、なんと文政元年(1818)、ワーテルローから三年、ナポレオンはまだセントヘレナで存命中である。仏郎王がナポレオンだとすれば、これは大変新しい情報に基づいて歌われた詩なのですなあ。アヘン戦争まではまだ二十二年ありますなあ。
ちなみに、文中、「西の国の港町」に旅した、とあるのは、原文では「崎陽」で、長崎のことです。