宋(南朝の)の元嘉二十七年(450)、文帝は北伐を計画した。
このとき、歩兵校尉であった沈慶之は
馬歩不敵。為日已久矣。
馬歩敵せず。日を為すことすでに久しきかな。
北方(このときの主たる敵は北魏である)の国々の騎兵中心の編成に対して、我が南朝の歩兵中心の編成では対抗できませぬ。このような状況になって既にかなりの期間が経過しております。(早々に修正できるような状態ではございません。)
と言上した。
しかし、帝は、御前会議でブレーンの丹陽尹・徐湛之や吏部尚書・江湛らをして戦略を説明させ、沈慶之を説得させた。
沈慶之、憤然として曰く、
治国譬如治家。耕当問奴、織当訪婢。陛下今欲伐国、而与白面書生輩謀之、事何由済。
国を治むるは譬うれば家を治むるが如し。耕にはまさに奴に問うべく、織にはまさに婢に訪(と)うべし。陛下、今、国を伐(う)たんと欲して、しかも白面の書生輩とこれを謀る、事何によりてか済せんや。
国を治めるというのは、家(私経済)を治めるのと同じでございます。それぞれの家では、耕作に関しては、それに詳しい男執事に訊ねることでございましょうし、織工に関しては、それに詳しい女中頭に訊ねるに決まっておりましょう。ところが陛下、あなたは今、ひとの国を征伐しようとして、(軍事の専門家であるわたくしどもではなく)色の白い書生どもと策を練られた。どうやって成功することがありましょうか。
徐湛之、江湛らは色を失ったが、
上大笑。
上、大いに笑う。
皇帝は「がはははは」と大笑いされた。
「卿の論、佳なるかな」
と誉めて、沈慶之を抜擢して副将軍とし、北伐を開始したのであった。
――→ そして大いに敗れまして、「元嘉の治」といわれた文帝のこれまでの政績はすべて灰燼に帰したのでありました。
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「宋書」巻七十七「沈慶之伝」より。
「治家」というのは、奥さんのご機嫌とったり家計簿つけたり子供のやる気を伸ばしたり・・・ではなくて、この当時は貴族大土地所有のいわゆる荘園制ですから、農業・手工業生産という産業問題を含んだ概念だったのですネー。