宋・仁宗の慶暦年間(1041〜48)。宋の政権も落ち着いた太平の時代であります。まだ新法党と旧法党の争いも起こっていないころ。
仁宗皇帝、あるときしばらく体調を崩し、政務をとれなかったことがあった。(←訳者注:仁宗皇帝は道教が好きで変な薬をよく服用していましたので、そのせいではないかと思いますが・・・)
幸いにして聖体は回復され、政務を執れるようになり、大臣たちをお召しになった。
宰相の呂許公などはその命を聞いて真っ先にお駆けつけになり、そのほかの大臣方もしばらくのうちに急ぎ集まられた。
ところが、重臣の中で、真面目でご信頼も篤い若手の司馬光だけがなかなかやってこない。
中使数輩促公、同列亦賛公速行。
中使数輩公を促がし、同列もまた公の速やかに行かんことに賛す。
皇帝の使いで宦官が何人か彼を呼びに行き、また同僚の重臣たちも早く来るように助言した。
のだが、なかなか来ない。宦官や同僚たちの報告によると、邸宅からは早くに出たのだが、あまりにゆっくり歩いてくるので他の者たちより遅くなっているらしい。
あ。
来ました。
今、ようやく宮城の門に入り・・・ゆっくりと・・・ゆっくりと・・・歩いてまいります。
ああ、と。やっと便殿に昇ってまいりました。廊下を・・・ゆっくりと・・・ゆっくりと・・・歩いてまいりましたあ!
というわけでようやく到着しました。
皇帝、みなが集ったと報告を受けて、言葉を賜る。
久疾方平、喜与卿等相見。
久しく疾み、まさに平らぎ、卿らと相見するを喜べり。
長いこと体調悪くて寝込んでおったが、ようやく本復して、みなさんとお会いできて喜んでおります。
仁宗皇帝はたいへん穏やかな方である。このときも穏やかなお言葉を賜ったのであった。しかし、ここで目を少しぎろぎろさせまして、司馬光の方をご覧になり、
而遅遅之来、何也。
しかるに遅遅の来、何ぞや。
それなのに、ゆっくりゆっくりお見えになられた方がおられますね。どういうことですか。
群臣は普段怒りを見せない仁宗皇帝の、この言葉に緊張した。皇帝の司馬光に対するご信頼は篤い。それゆえにこそ、こういうときに怒りが爆発しまして、かわいさあまって憎さ百倍となりぶちゅぶちゅぶちゅ・・・と血を見ることもあるのが宮仕えというものでございます。
これに対し、司馬光、にこりともせず、普段どおりの実直さで答えた。
陛下不予、中外頗憂。一旦聞急召近臣、臣等若奔馳以進、慮人心驚動耳。
陛下不予、中外頗る憂えり。一旦急に近臣を召し、臣らもし奔馳以て進まば、人心の驚動せんことを慮るのみ。
「陛下のご体調がお悪いということで、臣下も人民もみなたいへん心配しておりました。そんな中で、ある朝急に重臣たちが呼び出され、わたしども重臣が大慌てで宮内に集まる、というのをひとびとが見たら、彼ら人民の驚き動揺することいかばかりでございましょう。そのような中では、どのような不測の事態が起こるやも知れませぬ。それを心配して、わざとゆっくりと登庁する姿を、人民どもに見せる必要がある、と思ったのでございます。
わたくしはもとより遅鈍の性格でございますが、推し量るに、遅れてきた者がおりましたらそのような考えの者でございますし、早めにお見えになった方は陛下のお召しが急用であるかも知れぬと考えて集ってまいった忠臣であると申せましょう。」
「そうであったか。なるほどのう」
皇帝は深く頷かれ、群臣たちもこれこそ
「輔臣の体なり。」
皇帝をお助けする臣としてあるべき姿である!
と感じ入ったということである。
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朱晦庵先生「五朝名臣言行録」より。
「おお、勉強になったのう」
と言って読むひともあるであろう。
なお、普通こんなことしたら周りの者から嫌われるよね、と思うのはゲスのわたしどもの勘繰りで、後に温公と謚名された司馬光は、まわりのひとからもすっごく尊敬されていたので、その態度にみな心服し、嫉みなどは無かったのだそうです。ああ、ありがたやありがたや。