昨日に同じく宋・仁宗のときのこと。
今日は、司馬光の「ライバル」と評され、後の神宗皇帝の時代に丞相として新法の実施に辣腕を振るうこととなる王安石のお話をしておきましょう。
安石が、知制誥(詔勅のことを掌る)の官にあったころ、
嘗侍賞花釣魚宴、誤食鈎餌。已悟而食之既。
嘗て花を賞し魚を釣るの宴に侍し、誤ちて鈎餌(こうじ)を食らう。已に悟るもこれを食らいて既(つ)くす。
あるとき、宮中の花を観賞し魚を釣って楽しむ宴会に出たことがあった。このとき、安石は誤って釣のエサを食べてしまったのだが、そのことに気づいた後も(自分の間違いを認めず)食べ切ってしまったのだった。
このひとはこういう変なひとです。そのようすを、仁宗皇帝はじっと見ていた。
上以其不情而遂非、悪之。
上、その不情にして非を遂ぐるを以て、これを悪む。
皇帝は、安石が、普通のひとの心を持たず、間違ったとわかっても間違ったことをやり遂げてしまう姿を見て、好感情を持たなかった。
以上、「十八史略」巻六より。(この話ではございますまいか、OJ先生)
このとき、安石はゴカイとかゲジゲジみたいなものを食べてしまったのであろうか。それだと考えただけで気持ち悪い。
「十八史略」では上述のように簡潔に記されているのでそのような気持ち悪い想像もできてしまうのですが、その情報元となった朱晦庵先生(←朱子のことです、念のため)の「名臣言行録」によれば、
一日、賞花釣魚宴、内侍各以金楪盛釣餌薬、置几上。安石食之尽。
一日、花を賞し魚を釣るの宴に、内侍おのおの金楪(きんちょう)を以て釣餌薬を盛り、几上に置く。安石これを食いて尽くす。
ある日、宮中の花を観賞し魚を釣って楽しむ宴会において、宦官たちは黄金の皿をお客のそれぞれのために用意して、それに釣の餌とする丸薬をいくつも盛り付けて、台の上に置いた。安石は(自分の皿の)丸薬を全部食べてしまった。
とありますので、ムシの形のものではなく丸薬状にしてあったことがわかり、一安心です。
ただ、こちらの記述では、安石が「已に悟るも」(そのことに気づいた後も・・・)エサを食べ続けた、という一節が無いので、安石はほんとに気づかずに、
「これは美味いのう」
と言うてムシャムシャ食べてしまっただけであって、非情というのは当らない、ようにも読めます。
このあと、翌日になって、皇帝はこのときの宰相であった富弼に向かって、
王安石詐人也。使誤食釣餌一粒、則止矣。食之尽不情也。
王安石は詐人なり。誤ちて釣餌一粒を食わしむればすなわち止まん。これを食うて尽くすは不情なり。
王安石めはいつわりのある男じゃな。普通のひとなら、誤まって釣の餌の丸薬を一粒食べてしまったら、そこで止めるものじゃろう。一皿食べ尽くしてしまった、というのは、普通のひとの心ではないぞ。(だから、自分の誤りを認めず、最後まで取り繕ういつわりのある男だというのじゃ。)
と言うたことになっており、これだけだと仁宗皇帝の一人合点のような気も・・・。
なお、「名臣言行録」によれば、安石はこのことを根に持って、後年、
漢文帝不足取。
漢の文帝は取るに足らず。
前漢の文帝は(賢帝として名高いが、例えば武帝に比べれば雄略も無く、無為の政治を行った)つまらぬ存在だ。
と口癖のように言っていた。これは宋において同じような評価のあった仁宗のことを軽くみていたのであろうか・・・。
という記述もございます。
朱晦庵はこの記述を「邵氏聞見録」より採ったといい、その著者の邵氏は明確な反新法党のひとであるし、また晦庵自身も安石の派閥を批判する立場をとったひとだから(←朱晦庵は王安石より100年あとのひとですが、そのころになると、王安石の改革政策がすでに朱晦庵も推進しようとしている良識派の施策になっていたり、朱子の先生筋は実は王安石以降の新法党に妥協、ないしは取り入ったひとが多かったりして実は朱子と王安石は客観的にはたいへん複雑な関係だというべきなのですが、主観的には常に王安石批判に立っている)、安石がこれらの記述どおりの「悪いひと」であったかどうか、一概には言い切れないのですが、とにかく変なひとであったのは間違いない。
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ニンゲン同士というのは不思議なものでありまして、仁宗の二代あとの神宗皇帝(仁宗には男子がいなかったから、神宗は仁宗の直系ではない)になると、この安石の剛直が評価され、唐の太宗の魏徴、蜀漢先主の諸葛亮と比される信頼関係(「宋史・王安石伝」による。神宗皇帝が自らこう言うたのだという)を築くことになるのですからわからないものでございますね。
神宗が安石を丞相にしようとしたとき、政界の長老であった韓gは
安石為翰林学士則有余、処輔弼之地則不可。
安石、翰林学士たれば余あり、輔弼の地に処すればすなわち不可なり。
王安石でございますか・・・。あの男は天子のために詔勅草案を用意する翰林学士としては、有り余るほどの能力を持っております。しかしながら、皇帝とともに政治を仕切る丞相の地位に就けてはなりませぬ。
と忠告したそうであるが、神宗皇帝はこれを押し切って彼を輔弼の地位に着けた。
結果として、安石の妥協を許さぬ改革は国論を二分し、これより北宋は弱体化することになるのでありますから、
嗚呼、此雖宋氏之不幸、亦安石之不幸也。
ああ、これ、宋氏の不幸といえども、また安石の不幸なり。
ああ、このことは、宋王朝にとって不幸なことでありましたが、王安石自身にとっても不幸なことでありました。
と、元の史官たちは「宋史・王安石伝」の「論賛」に記している・・・・のも、実は史官たちが朱子の学問の影響を受けているのだから当たり前の評価というべきか。