令和2年5月15日(金)  目次へ  前回に戻る

「竹から生まれたたけむすめ、でありー」「それならおれたちはタマゴから生まれたタマゴ人間でぴよ」

「もともと」が何であったか、いろいろ考えてみるのは楽しいですね。・・・うーん、そうでもないか。来週のシゴト考え出すと気がウツになるばかり・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「汗青」というコトバがあります。「書籍のことをいう」と辞書にある。

今日寺子屋で、

「何故、書籍のことを「汗青」というのでちゅか?」

と弟子に訊かれて、

「む、むつかしい書籍を読むと冷や汗が出て、顔が青ざめるから、じゃよ」

と言ってごまかしてきたのですが、ホントは何故なのだろうか。

むかしは、紙が無かったので、木簡や竹簡に字を書いた。竹簡に字を書く際には、

以火炙竹令汗、殺青写書、謂之汗青。

火を以て竹を炙りて汗せしめ、青を殺して書を写す、これを汗青という。

この時の「殺」は「煞」の音、と注があります。「さつ」と読んで、殺す、滅ぼすの意。

火で竹(の札)を炙って、水分を表面に出させ、これによって青色を消して、文字を書いた。

というのが通説なのですが、うーん・・・。

汗を出させて青を殺す、そうすると「青」が無くなってから文字を書いているはずなのに、「汗青」で書籍の意味を持つというのは、

説殊扭捏。

説ことに扭捏(じゅうでつ)なり。

この説明は、特段に、こねくり回し過ぎているように思えます。

「そうではないのである」というひとがいます。明の初めごろに活躍した姚福先生「青溪暇筆」を閲すると、

古著書以竹、初稿書于汗青。

古えは著書するに竹を以てし、初稿は汗青に書す。

むかしは、竹に書物を記したわけですが、このとき、第一稿の下書きは「汗青」に書いたんです。

だから、書物のことを「汗青」というようになった。

汗青者、竹皮浮滑如汗、以其易于改抹。

汗青なるものは、竹皮の浮滑にして汗の如き、その改抹に易きを以てなり。

「汗青」というのは、竹の皮が浮いてつるつるして汗のようになっている部分で、擦ればすぐ文字が消えるため、修正や抹消がしやすいので(、下書きを書くのに)用いられたのだ。

既正、則殺青而書于竹素。

既に正すに、すなわち青を殺して竹の素に書す。

こちらの「殺」は注によれば「さい」と読め、とのこと。減らす、削減する、の意。

(修正を経て、)いよいよ正文を書く時には、表面の青皮を削った竹の白地に書き記す。

殺、削也。言去青皮。而書竹白、不可改易也。

殺(さい)は「削」なり。青皮を去るを言う。而して竹白に書すれば、改易すべからざるなり。

「殺」とは「削る」ということである。(下書きの書かれた)竹の青い皮を削りとることを言う。その下の竹の白い生地に書けば、もう書き換えることができないようになる。

なるほど。

此説極明暢近理。

この説極めて明暢にして理に近し。

この説はきわめて明瞭ですっきりして、正理に近いようである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

清・梁紹任「両般秋雨盦随筆」巻三より。どうなんですかね。

 

次へ