「竹から生まれたたけむすめ、でありー」「それならおれたちはタマゴから生まれたタマゴ人間でぴよ」
「もともと」が何であったか、いろいろ考えてみるのは楽しいですね。・・・うーん、そうでもないか。来週のシゴト考え出すと気がウツになるばかり・・・。
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「汗青」というコトバがあります。「書籍のことをいう」と辞書にある。
今日寺子屋で、
「何故、書籍のことを「汗青」というのでちゅか?」
と弟子に訊かれて、
「む、むつかしい書籍を読むと冷や汗が出て、顔が青ざめるから、じゃよ」
と言ってごまかしてきたのですが、ホントは何故なのだろうか。
むかしは、紙が無かったので、木簡や竹簡に字を書いた。竹簡に字を書く際には、
以火炙竹令汗、殺青写書、謂之汗青。
火を以て竹を炙りて汗せしめ、青を殺して書を写す、これを汗青という。
この時の「殺」は「煞」の音、と注があります。「さつ」と読んで、殺す、滅ぼすの意。
火で竹(の札)を炙って、水分を表面に出させ、これによって青色を消して、文字を書いた。
というのが通説なのですが、うーん・・・。
汗を出させて青を殺す、そうすると「青」が無くなってから文字を書いているはずなのに、「汗青」で書籍の意味を持つというのは、
説殊扭捏。
説ことに扭捏(じゅうでつ)なり。
この説明は、特段に、こねくり回し過ぎているように思えます。
「そうではないのである」というひとがいます。明の初めごろに活躍した姚福先生の「青溪暇筆」を閲すると、
古著書以竹、初稿書于汗青。
古えは著書するに竹を以てし、初稿は汗青に書す。
むかしは、竹に書物を記したわけですが、このとき、第一稿の下書きは「汗青」に書いたんです。
だから、書物のことを「汗青」というようになった。
汗青者、竹皮浮滑如汗、以其易于改抹。
汗青なるものは、竹皮の浮滑にして汗の如き、その改抹に易きを以てなり。
「汗青」というのは、竹の皮が浮いてつるつるして汗のようになっている部分で、擦ればすぐ文字が消えるため、修正や抹消がしやすいので(、下書きを書くのに)用いられたのだ。
既正、則殺青而書于竹素。
既に正すに、すなわち青を殺して竹の素に書す。
こちらの「殺」は注によれば「さい」と読め、とのこと。減らす、削減する、の意。
(修正を経て、)いよいよ正文を書く時には、表面の青皮を削った竹の白地に書き記す。
殺、削也。言去青皮。而書竹白、不可改易也。
殺(さい)は「削」なり。青皮を去るを言う。而して竹白に書すれば、改易すべからざるなり。
「殺」とは「削る」ということである。(下書きの書かれた)竹の青い皮を削りとることを言う。その下の竹の白い生地に書けば、もう書き換えることができないようになる。
なるほど。
此説極明暢近理。
この説極めて明暢にして理に近し。
この説はきわめて明瞭ですっきりして、正理に近いようである。
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清・梁紹任「両般秋雨盦随筆」巻三より。どうなんですかね。