始祖鳥は今でもおれたちの心の中に生きているのさ。
今日はなんとかまだもっていますが、明日明後日がツラい。もう週末までもたないかもしれんね。
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明の成化年間(1465〜87)のことじゃ。蘇州のひと張文宝という商人に息子がいたのだが、そいつが二十歳過ぎでいくつかで若死にしてしまった。
一年ほどしたとき、
其友人有遇之于途者。
その友人、途にこれに遇う者有り。
そいつ(死んだ息子)の友人が、道でそいつにばったり出会った。
あんまり自然に出会ったので、
忘其死也、拉帰家、升楼呼家人治具共飲。
その死するを忘れ、拉して家に帰り、楼に升りて家人を呼び、具を治めて共に飲まんとす。
そいつが死んでいるはずなのを忘れてしまい、
「久しぶりだな、元気か?」
と、つかまえて家に連れ帰って、二階に上がると、女房に
「こいつと飲むから、酒と肴を持ってこい。お前も一緒に飲め」
と声をかけた。
「なにを言ってるのかねえ・・・」
家人怪入門時無客、視楼上了無所見。
家人、入門時に客無きを怪しみて、楼上を視るも了として見るところ無し。
女房は、門から入ってきたときに誰も連れてきてなかったので不思議に思い、二階を見上げてみても、(夫以外)誰も見えない。
とりあえずお酒を燗して、ありあわせの肴を用意して二階に上がると、
其主語言揖遜如対人者、驚而噀之。
その主、語言・揖遜(ゆうそん)人に対する者の如く、驚きてこれに噀す。
主人は、誰かが目の前にいるかのように、しゃべったり聞いたり、一礼したり席を譲ったりしているので、
「きゃっーーー!!!」
と驚いてお酒をこぼしてしまった。
「お客の前で何やってるんだ!」
と怒鳴って女房の方を睨んだ瞬間、
「あ・・・あれ? そういえば・・・」、
遂不見、乃悟其已死。
遂に見えず、すなわちその已に死にたることを悟る。
そいつはかき消すように見えなくなってしまった。そして、「たしかにもう死んでいたよな・・・」ということに気が付いた。
なんとも不思議なことであった。
ところが数日後、
復遇之。
またこれに遇う。
また、そいつと出会ったのだった。
「おまえは一体・・・」
コトバが出なくなって黙っていると、そいつの方から
君家何乃爾、吾豈禍君者。吾今七総管部下、廟宇去此不遠、君能垂訪乎。
君が家何乃(なに)ぞ爾(しか)る、吾あに君に禍いする者ならんや。吾は今「七総管」の部下にあり、廟宇ここを去ること遠からず、君よく垂訪せんか。
「おまえのとこは何であんなふうにするんだろうね。ボクがおまえに何か禍いを起こすはずがないじゃないか。ボクは今、「七総管さま」の配下にいるんだが、(七総管さまの)祠はここからそんなに遠くないんで、ちょっと寄っていってくれないかね」
「七総管さまの配下か。出世したなあ」
と自分のことのように喜びながらついて行って、
即与倶至廟中、人廡間一室、坐談久之。
即ちともに廟中に至り、廡間の一室に入りて、坐談することこれを久しうす。
そのままともに(七総管さまの)祠に到着し、廊下の一画を仕切った部屋に入って、座り込んでずいぶん長い時間話しこんだ。
そのうち、そいつがいい出すには、
某所某家人有疾、彼多行禳謝無益也。
某所の某家の人に疾有り、彼多く禳謝を行うも益無きなり。
「どこそこのどこそこ家に病人がいて、そいつは(病気治癒のために)あちこちでいろんなお祓いをして歩いているんだ。何の役にも立たないのになあ」
「へー、そうなんだ」
彼は、
指堂上曰、此正欠我家主翁一陌紙耳、君為語之、了此自無事矣。
堂上を指して曰く、「これ正に我が家の主翁に一陌紙を欠くのみ、君、ためにこれを語れ、これを了さば自ずから事無からん」と。
正殿の方を指さして、
「そいつの病気は、ただ、うちのご主人どの(七総管さま)に百枚の紙銭を奉納するのを忘れているためだけのせいなんだ。そうだ、おまえ、そいつにこのことを伝えてやってくれ。それさえすれば、おのずと問題は解消するはずだ」
と言った。
「へー、そうなんだ。うんうん」
そのひとは帰って来て、
往告其家。
往きてその家に告ぐ。
どこそこ家に行って、その話をしてやった。
たしかにいろんなお祓いをしていたらしいが、
「七総管さまへのおまいりを忘れていました」
と、
如言祭禳、即癒。
言の如く祭禳するに、則ち癒ゆ。
言われたとおりにお参りに行って紙銭を奉納すると、間もなく平癒した。
その家からはいろいろ手厚くお礼をもらったが、「いや、それはおれではなく、やつのところに・・・」と思って何度か七総管の祠に来て、そいつと話し込んだ廊下の一画にも立ってみるのだが、その後もう二度と、そいつと会うことは無かった・・・。
さて、このすごい力を持つ「七総管さま」というのは何者であろうか。
郡人姓金氏名元、七里俗所私祀。
郡人、姓金氏、名元、七里の俗に私祀するところなり。
生きていたときは蘇州在住の、姓・金、名・元というひとであった。周辺の七つの村で民衆が(公的な認定を受けずに)私的にお祀りしている神霊である。
どのような生前の功績で神さまになったのかはわかりませんが、「七村落の総支配人」ゆえ、「七総管」と呼ばれるのである。
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明・陸粲「庚己篇」巻二より。「七総管さまの配下とはすごいな!」のかどうかは、その時代のその土地のひとにしかわからない特殊的な事象ですが、死んだひとが実は生きているひとと同じ空間で生きている、というのは、ままある話のようで、普遍的な事象ではないかと推量されます。(例えばこれらを参照せられたい→「鬼売糕」 「兄弟輩来」 「鬼人交争」)
そのうち久しぶりで友人に会ったときに、
(実はこいつもう死んでるんじゃなかったっけ。どうだっけ)
とよくわからないけど握手したり、
(あれ、ちょっと待てよ、もう死んだのおれの方だったっけ、そうだ、もう会社とか行かなくていいんだ!)
と思い出したりすることもあるかと思えば、なんかワクワクしますよね。