ふつうの生活をマジメに送るのがいちばんである。
感情なし。やる気無し。雨も降っていた。ちなみに今日は米国中間選挙だそうです。
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清の時代のことです。
わし(紀暁嵐)がまだ子どものころでしたが、
家奴宋遇病革時、忽張目。
家奴・宋遇、病革まるの時、たちまち張目す。
長くうちに仕えてくれた下僕の宋遇じいさんが病に罹り、もう危篤状態に陥ったときのこと、突然じいさんが両目をかっと見開いた。
そして、言った。
爾兄弟輩来耶、限在何日。
爾、兄弟輩の来たるや、限り何日に在りや。
「ああ兄さんたちも来てくれたんじゃな。何日までということになっているんじゃろう?」
しばらくしてから頷いて、独りごとのように言った。
十八日亦可。
十八日また可なり。
「十八日か。大丈夫じゃよ」
わしら子どもたちは、この話をほかの下男や女中たちから聞いて、さびしく思うとともに、死ぬときには兄弟やいとこが迎えに来てくれるのか、と顔を見合わせて変に納得したものだった。
ところが、この時、わしの家には一族の子どもたちに勉強させるために、学者先生を一人住まわせていたのだが、その先生は、
聞之哂曰、譫語也。
これを聞きて哂いて曰く、「譫語なり」と。
このことを聞いて、「ははは」とあざ笑い、「うわごとですね」と言っていた。
じいさんは、
届期果死。
届期に果たして死せり。
結局、予言どおりの十八日に死んだ。
じいさんの息子を呼んで簡単な葬儀をしてやったが、その通夜の席でじいさんが言ったとおりの日に死んだことが話題になった。
すると、学者先生は
又哂曰、偶然耳。
また哂いて曰く、「偶然なるのみ」と。
また「ははは」と笑って言った。「偶然そうなっただけでしょうね」
叔父の一人が
方与共食、投箸太息曰、公可謂篤信程朱矣。
まさに共に食わんとして、箸を投げて太息して曰く、「公、程朱を篤信すと謂うべし」と。
ちょうど食事を始めようとしていたが、箸を投げ出し、大きなため息をついて言った。
「あなたは、二程子や朱子の学問、すなわち「朱子学」をあまりに信じすぎているようだ・・・」
その年の暮れに、学者先生は契約が切れて去って行ってしまった。
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「閲微草堂筆記」巻八より。アメリカでも知識人とかリベラルとかメディアの方々が高い位置からいろいろご覧になって「こうするべきだ」「ああするべきだ」とおっしゃられているのでしょう。ありがたや。しかし普通のひとたちはどうするのかな。