「カッパが出てきたでピヨ」「そろそろシリコダマ争奪の季節だが、自粛しろでピヨ」
自粛しているとヒマでしようがないひとも多いでしょう。
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宋の黄山谷のコトバに、
尺璧之陰、当以三分之一治家、以其一読書、以其一為棋酒、公私皆為矣。
尺璧の陰は、三分の一を以て家を治むるに当て、その一を以て書を読み、その一を以て棋酒を為すべく、公私みな為せり。
というのがあります。
「尺璧の陰」とは何なのか。
「尺璧」は直径が一尺(古代で20センチ強)もある円盤状の玉のことで、ものすごく貴重なものである。その「陰」?
「淮南子」を紐解かねばなりません。その「原道訓」篇に曰く、
聖人不貴尺之璧、而重寸之陰。時難得而易失也。
聖人、尺の璧を貴ばす、而して寸の陰を重んず。時得難くして失い易きなり。
いにしえの賢者は、直径二十センチの巨大な円盤状の玉をも貴重だとは思わなかったが、ほんのわずかの時間を大切にした。なぜなら、時間は得難く、失いやすいものだから。
チャイナの童子塾や日本の寺子屋でも使っていた「千字文」では、記憶しやすいように、
尺璧非宝、寸陰是競。
尺璧宝にあらず、寸陰これ競(きそ)え。
尺の玉とて宝でござらぬ、わずかな時こそ争えよ。
と整理しております。
覚えましたか。
「寸陰」は「わずかな時間」ですが、もう少し発生論的には「影が一寸長くなったり短くなったりするほどの時間」のことです。「一瞬」というよりは、数十分ぐらいのイメージでしょうか。
ということで、「尺璧の陰」とは、「古びとが尺の璧のごとく(ほんとは「より」ですが)重んじた陰(時間)」の意。
最初の黄山谷のコトバは、
宝もののような貴重な時間は、これを三分して、その一を家長として家族の諸事件を治めるのに用いよ。その一は読書して過ごせ。あともう一は友だちと碁を打ったり、酒でもかっくらっていてもよろしい。こうすれば、パブリックもプライベートもすべてうまくいく(はず)。
と言っているわけです。
けれど、確かに封建時代の「家」はそれ自体が生業を営む企業のようなものなので、単なる家庭の問題を処理しているだけではないのですが、士大夫として為すべき「役人として国家のために尽くす」「古老として地域社会のために尽くす」という観点が抜けているので、
此猶自暇逸之論。
此れ、なお自ら暇逸するの論のごとし。
このコトバは、自らの判断で(世に出ずに)ヒマを作りサボっていよう、というひとの主張に過ぎない。
明の僧侶・蓮池和尚の「竹窗随筆」には、
古謂大禹聖人惜寸陰、至于衆人当惜分陰。
古えに謂う大禹聖人は寸陰を惜しむ、衆人に至りてはまさに分陰を惜しむべきなり。
古代の聖王・禹は、わずかな数十分の時間を惜しんで人民のために働いたのじゃ。聖人で王さまでもそれぐらいなのじゃから、普通のひとはその十分の一の数分の時間を惜しまなければなりませんぞ。
しかし―――
而仏言人命在于呼吸。夫分陰之中、有多少之呼吸、則我輩何止当惜分陰、一刹那、一弾指之陰、皆当惜也。
しかるに仏は「人命は呼吸に在り」と言えり。それ、分陰の中には多少の呼吸有り、すなわち我が輩なんぞまさに分陰を惜しむべきに止まらん、一刹那、一弾指の陰、みな惜しむべきなり。
一刹那(いちせつな)は一弾指の64分の1の時間で、一弾指は指を弾くその一瞬の時間を言います。
しかしじゃ。ブッダは「人の命は、一呼吸の間にも消え去っていくものだ」とおっしゃっておられるのだ。数分の時間の間に、何回の呼吸をすると思うのか。われわれ仏法の徒は(ブッダの教えを勘案して、)普通の人のように数分の時間を惜しむぐらいではいかんのだ。指を一回弾くこの短い時間、そのさらに六十四分の一で、物質が変化する最小単位の時間といわれる一刹那、それらのわずかな時間を惜しまねばならないのじゃ!
と言っています。なんとキビシイことであろうか。われわれはいにしえの聖人はもとより、普通の人より劣っているのだ。おれはダメなのだ。だからもっと努力せねば・・・というのである。「努力できるようならこんなにダメになってないはずではないか」と言いたいひともあるかも知れません。
だが、伊庵権禅師というひとは、
毎日至晩、必流涕、曰今日又只恁地空過、未知来日工夫何如。
日の晩に至るごとに、必ず流涕し、曰く「今日またただ恁地(にんち)に空過し、いまだ来日の工夫の何如なるかを知らず」と。
毎日、日が暮れると、「今日もまたこんなふうに空しく過ごしてしまった。そしてこの先に何ごとかができるものか、何の確信も持てない」と言って、涙を流したという。
励精若此、閲之竦然。
励精かくのごとく、これを閲するに竦然(しょうぜん)たり。
このように一生懸命がんばったというのである。その伝記を読んでみると、身のすくむ思いがする。
やはり努力せねばならないのです。
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清・梁紹任「両般秋雨盦随筆」巻五より。みなさんも、自粛している時間はせめて勉強したりしよう。重症化の度合いによっては、使える時間がもうあまり無いのカモしれないんですから。
なお、「竹窗随筆」は禅儒一如の名著として名高く、二十年ぐらい前に買い込んできたはずですが、これまで代々の肝冷斎が一度も紹介していないようです。情けない。本当に代々みんなダメだな。統一的な方針とか思想とか無いからな。ので、自粛中に勉強しておきます。