水の中にはこんな生物たちも棲んでいるのである。水が涸れると行くとこなくなって攻撃的になるかもしれん。
眠くなってしまうので綜合感冒薬を已めたら、やっぱりきついですね。なんか寒いんです。・・・と思ってたら、新潟で地震だそうです。まだ詳細情報が無いんですが、津波もあるようなんです。おいらは何かしようもないのでぬくぬくを享受しますが、消防や防災関係のみなさん、よろしくお願いします。
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ぐずぐずしながらやりますので、まああんまりキレが無いと思いますわー。
川淵深而魚龞帰之。 川淵(せんえん)深くして魚龞これに帰し、
山林茂而禽獣帰之。 山林茂りて禽獣これに帰し、
刑政平而百姓帰之。 刑政平らかにして百姓これに帰し、
礼義備而君子帰之。 礼義備わりて君子これに帰す。
川や淵が深いと、そこには魚やすっぽんが棲み付くであろう。
山や林に木が茂ると、そこにはケダモノや鳥が棲み付くであろう。
刑罰と政治が公平であれば、そこには人民たちが集まるであろう。
規範と道義が正しくあるなら、そこには賢者たちが「うっしっし」と言いながら、集まってくるだろう。
いわゆる「四帰」です。実際に言いたいのは後ろの「二帰」特に最後の「君子の帰」だと思うのですが、前の「二帰」があるために何となく信憑性が感じられますね。巧妙は言辞といえよう。
そういうことですから、
礼及身而行修、義及国而政明、能以礼挟、而貴名白、天下願、令行禁止、王者之事畢矣。
礼は身に及びて行い修まり、義は国に及びて政明らかに、よく礼を以て挟(あまね)く、而して貴名白(あき)らかに、天下願い、令行われ禁止めば、王者の事は畢(おわ)れり。
礼の規範が君主の身に影響を与えてその言行が正しくなり、正義が国に影響を与えてその政治が明朗になり、礼(規範)が広く行き渡り、(君主の)尊い名が天下に知られ、天下がその君主の支配を願うようになれば、どんな命令を実行され、どんな禁止事項も破られることがなくなります。そうなれば、もはや天下を道義によって支配する「王者」としてやるべきことはすべてやった、ということになりますね。
「挟」はそのままだと「はさむ」で、意味が通じません。おそらく「手偏」を「サンズイ偏」に帰ると「狭いところまで水が入りこむ、あまねく」という意味の字になりますので、どこかで書写の誤まりがあったのではないかと推定されています。その説に則って、「あまねし」と訓ませていただきました。
これは古代のうたにいう、
民亦労止、 民また労(つか)れたり、
汔可小康。 小康すべきにちかし。
此恵中国、 この中国を恵みて、
以綏四方。 以て四方を綏(やす)んぜん。
人民も疲弊しております。
少し休息を与えるべき時がまいりました。
そうやってこの周の支配する国に恵みを与えれば、
四方の民たちを安定させることにもなりましょう。(「詩経」大雅「民労」)
ということでありましょう。(この篇には、周の八代目のq王の悪政を批判したものだ、という伝統的な解説があります。朱晦庵は「王に申し上げているような荘重なコトバ遣いではないので、同僚が為政者を批判しているのではないか」と合理的な反論をしております。相変らず晦庵先生はスバラシイ。まあでもその前に、農繁期に終了などの祝い歌で、政治的な批判をしているのではないような気もします。)
以下、結論ですよ。
川淵者魚龍之居也。山林者禽獣之居也。国家者士民之居也。
川淵なるものは魚龍の居なり。山林なるものは禽獣の居なり。国家なるものは士民の居なり。
川と淵は魚や龍の棲み処なんじゃ。山や林は鳥とケダモノの棲み処なんじゃ。国家は、自由市民と人民の居場所なんじゃ。
「龞(すっぽん)」が「龍」になってますが、あんまり気にしないでおきましょう。
川淵枯則魚龍去之、山林険則鳥獣去之、国家失政則士民去之。
川淵枯るれば魚龍これを去り、山林険なれば鳥獣これを去り、国家失政すれば士民これを去る。
ここも「禽獣」が「鳥獣」になりましたが、気にしないでいきましょう。
川や淵の水が涸れてしまったら、魚や龍はいなくなってしまう。当たり前じゃ。山や林がごつごつと樹木無しになってしまえば、鳥や獣はいなくなってしまう。当たり前じゃ。国家がその政治を誤れば、自由人も人民も逃げ去ってしまうであろう。
それも当たり前である。
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「荀子」致士篇より。うまく国家を憂うるひとの心を打つなあ。こんなのを演壇で叫ばれたら「うおおおお」と盛り上がってしまう・・・かもしれませんね。状況次第でしょうけど。我が国は政府も与党もそこそこしっかりしているからお任せして人生の快楽を享受させていただいております。文句を言ってるのも楽しいなあ。隣に心配な国があるんですが、心配してもしようがないですよね。