令和元年6月17日(月)  目次へ  前回に戻る

「怪しからんでぶー、やる気が無いとは」と居丈高に振る舞うぶた公家だ。ぶた公家はモグを「地下人」として見下しているのである。ナマケモノやコアラは家より高いところにいるので「堂上貴族」として頭が上がらないという。

ぶた公家ごときに何か言われても、やる気無いでモグなあ。おまけに健康状態もよくないという現状なので、もうぼろぼろでモグ。夏の服も無いし、洞穴から出ないことにしています。

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襤褸又襤褸、 襤褸(らんる)、また襤褸、

襤褸是生涯。 襤褸こそ、これ生涯なり。

「襤」(ラン)はもともとは「へりを取っていない最低の服」の意ですが、そういう服がぼろぼろになりやすい、というので、「ぼろぼろになった布の端切れ」の意味にもなります。「褸」(ル)は「縷」と同じで、「細長い布くず、糸くず」。

 ぼろぼろの服だ、次もぼろぼろの服だ、

 ぼろぼろの服こそ、我が人生そのものだ。

食裁乞路辺、 食は裁(わず)かに路辺に乞い、

家実委蒿莱。 家は実(まこ)とに蒿莱に委ぬ。

「裁」は「才」と同じ、「わずかに」の意、「蒿」はヨモギ、「莱」はアカザのことで、そのままでも意味が通じますし、「蒿」は草深い、「莱」には荒れた草地の意味もあるのでそちらでも通じます。

食い物はなんとか、道のべの家々で乞食して頂戴し、

棲み処はヨモギやアカザの茂るまま。

洞穴ではなく自分の棲み処があるとは立派なものですなあ。

看月終夜嘯、 月を看ては終夜嘯き、

迷花言不帰。 花に迷いては言(ここ)に帰らず。

 月を見て一晩中何やらくちずさんでいることもあるし、

 花にうつつを抜かしてそのまま帰ってこないこともある。

いつからこんなことになってしまったのか。

自一出保社、 一たび保社を出でしより、

錯為箇痴獃。 錯(あや)まちて箇の痴獃(ちがい)と為れり。

保社」は禅の道場のことだそうです。「お寺の世界」ということでしょう。「獃」はうるさいイヌ、あるいはそのようなひと。

 あの日、寺院の秩序を飛び出してから、 

 間違ってこんなあほうのイヌころに、なってしまったわい。

おそらく本人的には「錯」まっておらず、このようになるしかなかったのだ、うっしっし、と思っていると思いますよ。

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本朝・大愚良寛「襤褸」詩。おいらもだいたいこんな感じになってきました。いやあ、錯まっちゃったなあー、わははは。

 

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