令和元年5月24日(金)  目次へ  前回に戻る

ぶたとのは勉強嫌いなので、普通の文字はもちろん、ぶた文字もあまり読めないはずだが・・・。何かいいことが起こるかどうか、調べたいのであろうか。

問:そろそろ洞窟の外は暑くなってきましたかな?

答:ずっと洞窟の中に棲んでいるのでわかりませんのじゃ。

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自分で勝手に質問して自分で答えるやつです。

問:祥瑞果為天之験治否。

祥瑞果たして天の験治たるや否や。

いいこと・わるいことが起こる前には、予兆になる不思議な事件が起こる、といいますが、これは本当に天が(いいことを下してやる価値があるかどうか、あるいは悪いことを起こしてやるべきかどうか、)調べて確認して行っているのだと思いますか。どうですか。

はあ。

普通のひとはこんなこと訊かれても困りますよね。しかし、自分で質問したんだから答えないといけません。

答:祥瑞固有此理。但君子只自尽其治而已。

祥瑞もとよりこの理有り。ただし、君子はただ自らその治を尽くすのみ。

いいこと・悪いことの前に予兆になる事件が起こる、ということには、もちろんそのようになる理屈があるのだ(。疑ってはならない)。しかし、われら知識人は、(どうすればいいことが起こる予兆がもらえるか、などと考える必要はなく、)ただ、自分のやるべき社会的行為をやっていくだけなのである。

知識人(もちろん古典チャイナの)は、実際に政治や行政に携わっていなくても、良好な社会の維持(「治」)のために努力しなければなりません。

孔子さまも、こうおっしゃっておられるではないか。

@  鳳鳥不至、河不出図。吾已矣夫。

鳳鳥至らず、河は図を出ださず。吾、已んぬるかな。

おおとりは来ない。河から図は出てこない。わしはもうおしまいじゃー!

と。

これは「論語」子罕第九に出てくるコトバです。わけがわからないので朱晦庵先生の解説を聞きます。

鳳、霊鳥。舜時来儀。龍馬負図、伏羲時出。皆聖王之瑞也。

鳳は霊鳥なり。舜の時来儀す。龍馬図を負いて、伏羲の時に出づ。みな聖王の瑞なり。

鳳凰は神聖な鳥である。超古代の聖天子・舜の時代に出現したことがある。龍馬は、世界の秘密を書いた図を背中に背負って、原始時代の伏羲(ふっき)のころに(河から)出てきたことがある。どちらも聖なる王が出現する予兆なのだ。

それが出ない、ということは、孔子がいろいろ努力しているのに聖なる王者は現れない、という予兆なので、わしの努力はアワになるのじゃー!と嘆いておられるんです。孔子ほどのひとが「祥瑞」(予兆)がない、と言って嘆いているのですから、予兆があると実際に出来事が起こる、という命題が正しいことの証拠である。

また、孔子さまにはこんなこともあったではないか。

A  於西狩獲麟。反袂拭涕、悲吾道窮。

「西に狩りして麟を獲たり」において、袂を反して涕を拭い、吾が道の窮まれるを悲しめり。

「春秋」哀公十四年の「西の方で狩猟をしたら、キリンが捕まった」という事件の時に、(孔子はキリンが死んで捕まったことで)たもとをひっくり返して涙を拭い、自分の進んで来た道がとうとう行き詰まってしまったことを悲しんだ。

これは「春秋公羊伝」に詳しい事件です。詳しくは、こちらを参照のこと。

ということで、この二件からもわかるとおり、

要之、世不治、有与無皆非、世治、則無往而非楽事。

これを要すれば、世治まらざれば、有も無もみな非にして、世治まらば、往きて楽事にあらざる無し。

ポイントをまとめれば、世の中がうまく行ってないならば、予兆が有っても無くてもとにかくよくない。世の中がうまくいっているならば、未来に楽しくないことが起こるはずがないのだ、ということだ。

なので、知識人のみなさんには、予兆がどうたらこうたら抜きにして、世の中が治まるように努力してもらわねばならないのです。

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明・唐枢「雑問録」より。何の知識にも生き方の参考にもならないような気がしますが、勉強になるなあ。ああ、漢文読んでよかったなあ。

 

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