「むかしはおれたちでもオロカモノをだますことができたでコン!」「しかし今ではわれらの方がオロカモノと言われる始末でポンポコ」ああオロカモノとは言われたくないものである。
今日はわしの番ですかな。8月1日以来の出番ですじゃ。あのころは暑かったなあ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
―――この愚か者め!
と、よく叱られるひとは、以下のように反論してみるのがよろしいでしょう。
智者之所短、不如愚者之所長。
智者の短なるところは、愚者の長ずるところに如かず。
智者であってもその不得意な分野については、愚者が得意な分野についてできることにかなわない。
と申します。
文公種米、曾子枷羊。
文公は米を種(う)え、曾子は羊に枷す。
晋の文公はコメのタネを植え、孔子の弟子・曾参はヒツジを馬車につないだ。
そうですからなあ。わははは。
―――文公がコメを植えた、曾子がヒツジをつないだ、というのは、それはなんじゃ?
と訊ねられたら、えらそうにのけぞって教えてやればいいのです。
「わははは、それはですなあ・・・
近人(現代のひと)・王利器の注釈によれば、
米不可植生、羊不能備駕。而晋文種之、曾子枷之、是亦知其不可爲而爲之者也。
米は植えて生ずべからず、羊は駕に備うるあたわず。しかるに晋文これを種(う)え、曾子これに枷す、とは、これまたその為すべからずしてこれを為す者なることを知れり。
コメという植物は苗代から作らねばならず、地面に種のまま植えても育つものではない。ヒツジは馬と一緒に馬車を牽かせることができるはずがない。それなのに、賢者である晋の文公がコメのタネを植え、孔子の高弟である曾子がヒツジを馬車につないだ、というのは、どちらもしてはならないことをしている、ということであると知れる。
ということなんだそうです。要するに、智者であっても自分の専門外のことについては間違ったことをするものじゃ、という意味の格言なんですなあ」
また、言う、
相士不熟、信邪失方。察察者有所不見、恢恢者何所不容。
相士も熟せざれば、信邪方を失う。察察たる者は見ざるところ有りて、恢恢たる者は何の容れざるところあらんや。
占い師も習熟しないうちは、正しい答え・間違った答えを見出すことに失敗するもの。
いろんなことが見えている者は、ここは見ない方がいい、というところは見ないもので、非常に心の広い者はなんでもかんでも許容してしまう。
能力のある者がオロカ者に見えてしまうことが、ままあるものなのです。
朴質者近忠、便巧者近亡。
朴質なる者は忠に近く、便巧なる者は亡に近し。
朴訥で飾り気のないやつは、実際はまごころこめて人に対していることが多く、口先だけの上手なやつは、まもなく亡んでしまうことが多いのです。
ということで、愚か者こそ活用すべきなのですぞ!
・・・・・・・・・・・・・・・・
漢・陸賈「新語」巻上「輔政」篇より。政治を行う者は愚か者の使い方に留意する必要があるんです。たしかに、世の中にいるやつはほとんどが愚か者ですから、愚か者使えなかったらやっていけません。