さすがのぶたとのでも、モグ家臣に対しては、侮り気安い心を持っているようである。
立派な服があればシアワセになれたかも知れないのだが・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
説教を聞きます。
人不見其可畏、則必慢易之。一啓其慢易之心、又何以能治之也。
人その畏るべきを見ざれば、すなわち必ずこれを慢易す。ひとたびその慢易の心を啓けば、また何を以てよくこれを治めんや。
ひとは、(このひとは)畏れるべきだ、というところを見せないと、必ず侮り気安くなるものである。そして、ひとたび侮り気安い心を相手に持たせてしまうと、いったいどうしてそやつを支配することができるだろうか。
それを防ぐには、
君子必臨之以荘。
君子必ずこれに臨むに「荘」を以てす。
みなさんは、相手に対して、「荘厳」な様子を見せなければならんぞ。
―――なるほど。
これは「論語」為政篇に曰く、
季康子問使民敬忠以勧、如之何。
季康子問う、民をして敬忠を以て勧めしむるには、これを如何せん。
若い大夫の季康子どのが質問した。
「人民たちに、わたしを敬い、まごころを尽くすようにさせるには、どうすればいいものでしょうか」
子曰、臨之以荘則敬、孝慈則忠、挙善而教不能、則勧。
子曰く、これに臨むに荘を以てすれば敬し、孝慈なれば忠、善を挙げて不能を教うれば、すなわち勧まん。
先生がお答えになって言うには、
「人民たちに対して荘厳なすがたを見せれば敬ってくれるでしょう。(あなたが)先祖に孝行し子弟に慈愛をそそげば(人民たちは)まごころを尽くしてくれるでしょう。そして、善い行為を誉め、できないやつには教えさとせば、彼らは(喜んで)そうすることでしょう」
と。
というのを引いているんですなあ。(句読と意味は「朱子章句」によった)
―――それでは「荘厳」にする具体的な方法を教えてください。
正其衣冠、尊其瞻視、出辞気、斯遠鄙倍。
その衣冠を正し、その瞻視を尊び、辞気を出だし、ここに鄙倍を遠ざく。
服装を礼に適ったものにし、きょろきょろせず、言葉遣いを重くし、いなかびたことを遠ざける。
などが挙げられるぞ。
ところが、ゲンダイ(19世紀中ごろ)のサムライたちはどうであろうか。
往往有挙措軽佻、言辞鄙猥、以自喜者。其意蓋謂、不如是、難以通人情而服人。
往往にして挙措軽佻にして言辞鄙猥、以て自ら喜ぶ者有り。その意けだし謂う、「是くの如からざれば以て人情に通じ人を服しがたし」と。
振る舞いは軽々しく、ことばは下品、というのを自分でよしとしている者がよくいるのである。なぜそんなことでよしとしているかというと、「こうしないと人の心を知り、人に気に入ってもらうことができないからのう」と言うのである。
―――むむ。
嗟乎、通人情而服人者、自有其道在焉。今不以其道、而露此醜態。
嗟乎(ああ)、人情に通じて人を服するはおのずからその道在ること有り。今その道を以てせずして而してこの醜態を露わす。
ああ。人の心を知り、人に気に入ってもらうには、別に方法があるものである。ところがその方法を用いずに、この恥ずかしい姿をさらしているのだ。
人に気に入ってもらうには、度量を示すとか、すぐれた行為を見せるとか、ちゃんとした方法をとればいいのに。
―――むむむ。
吾恐其欲服人者、適足以導其慢易也。
吾恐る、その人を服せんと欲するは、以てその慢易を導くに適足せんことを。
わしが心配しておるのはな、おまえが人に気に入ってもらおうとする手法は、実は侮り気安くされるのに適当で十分な方法でしかないのではないか、ということである。
―――むむむむむむ。
・・・・・・・・・・・・・・
佐久間象山「省侃録」より。むむむむむむむむ・・・。
でもまあ、立派な服も無いし、きょろきょろするし、言葉遣いもおどおどしているので、あなどり気安くされても仕方ないでしょう。もしそうでなければ尊敬されるタイプになったかも知れないかと思うと、残念なことである。