ふつうの一日にこそシアワセがあるのである。それなのにそうでない日を「平日」というのは解せない。
「平日」がまだ二日もあるとは。もう寝込んでしまいたい。
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唐の吾山圓智禅師(道吾宗智ともいいます)が薬山惟儼のところにいたとき、相弟子の雲巌曇晟が体調を崩して寝込んでしまったというので見舞いに行った。
乃謂曰、離此殻漏子、向甚麼処相見。
すなわち謂いて曰く、「この殻漏子を離れて、甚麼(いんも)の処に向かいて相見せん」と。
見舞いに行って言うには、
「この肉体を離れて、どこでまた会うことにしようか」
と。
雲巌、体調が悪いので面倒くさそうに
不生不滅処相見。
不生不滅の処に相見せん。
「生まれることも死ぬこともない、輪廻を離れたところでお会いしよう」
と応えると、道吾にやりといいて曰く、
何不道非不生不滅処、亦不求相見。
何ぞ道(い)わざるか、不生不滅の処に非ずしてはまた相見を求めず、と。
「どうせなら、生まれることも死ぬこともない、輪廻を離れたところでなければおまえなんかとまた会うつもりは無い、と言え」
ひっひっひ。
なお、道吾が示寂(←高僧の死のこと)したのは唐の太和九年(835)、雲巌は会昌元年(841)であるのでこのときは元気になったみたいです。
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「景徳伝燈録」より。みなさんとはどこかでまた会えるのでしょうかね。