平成28年11月22日(火)  目次へ  前回に戻る

「かに忍者」は大した術も無く、恐れおののくようなことは無いのであるが、カエル忍者のようなどうしようも無いような者から見ればライバルである。

今日は朝福島沖M7.3の地震、東京も長く揺れましたので「落ち着かなければ、ければ、ればばばば」と畏れおののいて飛び起きました。・・・しかし揺れが収まると「まあいいか」とまた寝てしまった。せめて風呂桶に水汲むぐらいしないと、賢者とはいえないカモなあ。

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最近久しぶりで「孟子」を読んでいるので、その「梁恵王」下から。

斉の宣王、燕を攻めてこれを占領した。ほかの国々は斉が強大になるのを嫌がって、連合して救燕の兵を出そうとした。

宣王、孟子に言った。

「諸侯の多くが寡人(わたし)を攻撃しようとしているらしい。先生はどうすればいいと思われますかな?」

孟子答えて曰く、

臣聞七十里為政於天下者、湯是也。未聞以千里畏人者也。

臣、七十里にして政を天下に為す者を聞けり、湯、これなり。いまだ千里を以て人を畏るる者を聞かず。

「わたくしめは、三十キロ四方ぐらいの小さな領地しか持たなかったのに、天下を治めた方のことを聞いたことがあります。殷の初代王であられた湯王ですな。しかし、まだ四百キロ四方もある大きな領土を持ちながら、他者の動きに恐れおののいた方がいたなどとは、聞いたことがございませんがなあ」

と、孟子らしいイヤミに満ちた答えをいたしました。

孟子が本当にこんなふうに王さまに向かってイヤミなことを言ったかどうかはわからないんです。「孟子」という書は孟子の言行に関する客観的な記録、ではなく、孟子が弟子たちと「こうしよう」「ああしよう」と言って作った書物なので、

「よし、わしはこのとき、こう、反体制的にカッコよく言ったことにしよう!」

と決めてしまえば、言ってないことも言ったことになるんですな。

―――「王さま」

と孟子は言を継ぎます。

「尚書」(書経)には、このようなことが書いてございます。殷の初代・湯王は最初に葛の国を攻めたが、天下はこれを正義の戦いと考えた。それ以降、

東面而征西夷怨、南面而征北狄怨。

東面して征すれば西夷怨み、南面して征すれば北狄怨む。

東に向かって攻めれば、西の異民族が文句を言い、南に向かって攻めれば、北の異民族が文句を言う。

ということになりました。みな、

奚為後我。

なんぞ我を後にせる。

「どうしてわたしどもから攻めてくださらないのか」

「はやくはやく、おいらたちから攻撃ちてくだちゃいよう」

と言ったというのである。

人民たちは湯王が攻めて来るのを日照りのときに雲が湧くのを見るようなキモチで期待して待っていたのでございます。

だから、湯王が攻めてきても、商人は市場を締めず、農民は耕作の手を止めようとしなかった。湯王は悪い君主を滅ぼして、苦しんでいた人民に情け深くしたからである。

若時雨降、民大悦。

時雨の降るがごとく、民大いに悦べり。

農業に必要なときに適当な量の雨が降ったときのように、人民たちは大いに歓迎したのでありました。(以上、「尚書・仲虺之誥」仲虺(ちゅうき・人名)の告諭)より)

さて。

今、燕の王は民を虐待していたのではないでしょうか。それで、燕の人民たちは、斉王の占領を、大水や火災の中から自分を救い出してくれるように歓迎して、弁当や水筒を持参して「これを食いなされ、飲みなされ」とばかりに出迎えてくれたのではありませんかな。それなのに、人民を殺したり捕虜にし、あるいは燕の国の大切な祭場をぶっ壊したり、その国宝を分捕ったりしたのでは、どうしてよろしかろう。

天下固畏斉之彊也。今又倍地而不行仁政。是動天下之兵也。

天下もとより斉の彊を畏るるなり。今また地を倍にして仁政を行わず。これ天下の兵を動かすなり。

天下の国々はもともと斉国の強大なのをイヤがっておりました。そこへ、今回、燕を合わせてその領土を二倍に増やして、しかもいい統治をしていない。これでは、天下の国々の軍勢を、こちらから攻めに来てください、と誘っているようなものでございます。

王さま、どうぞ、

速出令、反其旄倪、止其重器、謀於燕衆置君而後去之、則猶可及止也。

速やかに令を出だし、その旄倪(ぼう・げい)を反(かえ)し、その重器を止どめ、燕の衆に謀りて君を置き、しかる後にこれを去れば、なお止どむるに及ぶべきなり。

すぐに命令をお出しください。まず(燕から連れてきた)老人と子どもたちをお戻しになり、(燕の)国宝をもとどおりにしておき、燕の国民たちと相談して彼らの納得する者を王に立てて、そうしておいて占領軍を引き揚げさせるがよろしかろう。そうすれば、なんとか天下の軍隊がこちらに向かってくるのを止めさせることができるかも知れません。もう時間はあまり無いのですぞ!

・・・・・・・・・以上。

朱子は北宋の范文正のコトバを引用する形で、次のように評しております。

―――孟子は斉や梁の王さまたちに説くに、必ず古代の聖なる王者である堯・舜・湯王・武王のようにせよ、と言っている。

蓋治民不法堯舜則是為暴、行師不法湯武則是為乱。豈可謂吾君不能而舎所学以殉之哉。

けだし民を治むるに堯・舜に法らざるはすなわちこれ暴と為し、師を行(や)りて湯・武に法らざるはすなわちこれ乱と為す。あに、吾が君あたわずと謂いて学ぶところを舎(お)きて以てこれに殉ずべけんや。

これはつまり、人民を治めるに当たって堯や舜の真似をしないなら、それは暴政というべきものである。軍隊を出すに当たって湯王や武王の真似をしないなら、それは乱闘というべきものでしかない。「我が主君にはそんな(立派な)ことはできないのだ」と諦めて、自分のしてきた学問を棄てて王の言いなりに従う、そんなことが(孟子に)できるはずはなかったのである。

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孟子は無道な戦争をすると負けますよ、と言ってます。朱子や范文正は、無道な戦争をしてはいけませんよ、と言ってるんですなあ。

ところが、この「孟子」の一節を読んで、まったく違ったことを考えたひともあったんです。

未聞以千里畏人者也(いまだ千里を以て人を畏るる者を聞かず)の一語胸を刺すが如し。

「まだ四百キロ四方もある大きな領土を持ちながら、他者の動きに恐れおののいた方がいるなどとは、聞いたことがございません」という孟子のコトバはわれらの胸をギリギリ刺す、とお思いになりませんか。

皇国、東蝦夷に起こり西琉球に至る、亦小とすべからず。魯西亜、米利堅大と雖どもまた何ぞ畏るる足らん。況や英吉利、払郎察の小をや。

我が皇国は東は北海道島から、西は琉球諸島まで、決して小さい国土ではありませんぞ。ロシアやアメリカはでかい国であるけど、それでもコワがる必要はないのだ。いわんやイギリスやフランスみたいなちっぽけな国をどうしてコワがることがあろうか。

それでもまだコワい、というのであれば、

内政教を修め外強暴を平らぐること殷湯の如くんば、天下誰か敢て吾を忤視せんや。

国内では内政・教育をきちんとし、国外では強力で乱暴なやつらを殷の湯王のように平定するのであれば、世界中の誰がわれわれを敵視することがあろうか。

ところが、

今は則ち然らず、惴惴然として奉承の至らざらんことを恐る。孟子をして我が今日を目せしめば、其れ何とか云わん。在上の君子読みてこの章に至らば亦何の面目かある。

今は全然そうなっておらんのです。ビクビクとびびって(「惴」(スイ)は「恐れる」)外国のみなさまにサービスができないことを不安に思っているんです。孟子さまが我が国のいまの様子をごらんになったら、いったい何とおっしゃることでしょうか。上層部のお偉方は、「孟子」を読んでこの章まで来たら、「面目ない」とうなだれるべきでありましょう。

このひとはこんなことを、萩の田舎の牢屋の中で、獄中のひとたちに向かって講じていたんです。

・・・・・・吉田松陰「講孟余話」第七場より。やっぱり変なひとのような気がするなあ。ちなみに1850年ごろのこのひとたちの認識では、皇国は「東蝦夷より西琉球に至る」まで、という認識だったんですね。

 

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