・・・アリさんたちはありがたいなあ、おいらみたいな勤労してこなかった者も、この部屋でひと冬過ごさせてくれるというのだ。ん? この部屋、看板があるな。「食糧庫」・・・か。
勤労に感謝しなければいけません。おいらは地下に潜っているのでシゴトしてませんけど。
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むかしは仏像を造ったりお寺を造ったりするシゴトも大事なことでした。
隋の開皇三年(583)のこと、長安城の西北部にあった凝観寺の寺僧・法慶和尚は一丈六尺の釈迦像を造らんとの願を発し、
捻塑纔了未加漆布、而慶忽終。
塑を捻りてすでに了し、いまだ漆布を加えざるに、慶たちまちにして終われり。
粘土で像をこしらえあげ、あとは布をかぶせて漆を塗るだけだ、というところまでいったのだが、そこで法慶は突然に死んでしまったのであった。
ところで、同じ日に宝昌寺の大智和尚という僧侶も死んだのだが、この僧が三日後に生き返って言うに、
初去飄飄若乗風雨、可行百里、乃見宮殿人物華綺非常。
初め去るに飄々として風雨に乗ずるがごとく、行くこと百里ばかりにして、すなわち宮殿人物の華綺にして常にあらざるを見る。
「死んでからはまず、ふわふわと風とか雨に乗ったかのように飛んで、四十キロも行ったかなあ、というあたりで、異常なぐらい華美できれいな宮殿に、人がいるのが見えたんじゃ」
その中には、
見一人似若王者、左右儀仗甚有威雄。
一人の王者のごとき者、左右の儀仗はなはだ威雄有るを見たり。
王さまらしきかっこうの人が、左右に、たいへん威儀のあるおつきの者たちを並べているのが見えた。
と思ううちに、その人のいる宮殿の中庭に降り立ち、誰かからひざまずくように言われて、地面に座ったのであった。
大智より前、階段を下りてすぐの地面の上に、誰か僧侶が畏まって座っている。その後ろ姿は、凝観寺の法慶和尚だと知れた。
階段の上の王さまらしき人は
面憂色。
面に憂色あり。
苦虫をかみつぶしたように困り切った顔をしていた。
王者と同座して、王者の何倍かあるほど大きな、天竺ふうの服装のひとがいて、そのひとが王者に言うには
慶造我未了、何為令死。
慶、我を造りていまだ了せざるに、何としてか死せしむ。
「法慶はわたし(の像)を造ろうとして、まだ完成していないのです。どうして死なせてしまったのですか」
と。
王者は考え込んでいたが、突然思い余ったように立ち上がって、自ら階段を降りて地面に立つと、
呼階下人、曰、慶合死未。
階下の人を呼びて曰く、「慶まさに死すべきかいまだしか」と。
法慶の隣に座っていた配下の者に訊いた。
「法慶はもう死ぬことになっていたのか、どうなのだ?」
配下の者も緊張したおもむきで階上の大きな人をちらちら見ながら王者に向かって答えた。
命未尽而食尽。
命はいまだ尽きざるも食尽きたり。
「一生の間の命は尽きておられなかったのですが、一生の間に食べていいものがもう終わりましたので、お連れしたのでありますっ」
それを聞いて、王者は言った。
「ばかもん!それなら、
可給荷葉、而終其福善。
荷葉を給い、その福善を終わらしむべし。
ハスの葉を差し上げて、善き仕事を成し遂げられるようにせんか!」
そのコトバを聞いた瞬間、大智和尚の目の前から、大きな人と法慶和尚の姿が消え、次に王者は大智を指さして、
「また坊主か! こいつも帰らせろ!」
と言った瞬間、―――(>_<)―――!!!!!!!
大智は、宝昌寺に安置されていた棺桶の中で目が醒めたのであった。
生き返った大智が人を遣って問わせると、同じ日に凝観寺でも法慶和尚が生き返っていた。
ただし、生き返った法慶和尚は、その後、ふつうのものは口にせず、
旦旦解齋、進荷葉六枚、中食八枚。凡欲食時、先以煖水沃令耎湿方食之。
旦旦解斎するに、荷葉六枚、中食には八枚を進む。およそ食らわんとする時は、まず煖水(だんすい)を以て沃(そそ)ぎ、耎湿(ぜんしつ)せしめてまさにこれを食らう。
毎朝、朝のお勤めが終わると、ハスの葉六枚、お昼には八枚を食料にした。食べる時には、温めた水をこれに注ぎ、じっとりと湿らせてから食うのであった。
そしていろんなひとに勧めて釈迦像に漆を塗るための寄付をしてもらい、これを完成させてからは、日夜、礼にたがわぬ作法で礼拝して、大業年間(605〜612)のはじめに亡くなった。七十六歳であった。
僧侶は午後にはご飯を食べないのが常であるので、晩飯はありません。一日にハスの葉十四枚である。これはすばらしいダイエットになったことであろう。
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唐・釈道宣「続高僧傳」第二十五より。
衣食の「食」が無くても仏教はできるんです。
「衣」の方については、次のようなひともいたという。
親(まのあた)り見しは、西川の僧、・・・・・唐土の紙の下品(げぼん)なるは、きはめて弱きを買ひとり、あるいは襖(あお)あるいは袴(か)に作て着れば、起居(たちい)に壊(やぶ)るる音してあさましきをも顧みず、愁へず。
わたし(道元)が(チャイナで修行していたときに)自分の目で見たことであるが、四川西部から来ていた僧がいて・・・・・、チャイナの紙の最低のやつはすごく弱いのだが、これを買ってきて、これを服にしているひとがいたのである。「襖」は上着、「袴」はボトムである。そんな最低の紙だから、いかに物静かに動いても、立ったり座ったりするたびにビリビリと破れる音がして、呆れてしまうのであるが、本人はそんなこと気にせず、イヤになりもしないでおられた。
まわりのひとが
「一度郷里に戻って身支度を整えてきてはどうか」
と言ったが、そのひと、
郷里遠方なり。路次の間に光陰を虚しくして学道の時を失はん事」と愁ひて、更に寒を愁へずして学道せしなり。然れば大国にはよき人も出来(いできた)るなり。
「わしの実家は遠いですからな。旅の途中で時間を過ごしてしまっては、仏教を学ぶ時間が無くなってもったいない」
とイヤがり、寒いのなんかまったくイヤがらずに修行しておられたのである。こういうことであるから、でっかいチャイナの国にはいろんな人いて、とてつもないやつも出て来る、というわけである。
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こちらは孤雲懐奘(こうん・えじょう)が師の永平道元の言行を記した「正法眼蔵随聞記」巻一より。どうでもいいことですが、わたくし、少年時代にこの書の名を初めて聞いたときはショーボーゲンゾーもよくわからなかったが、どうやら「ズイモンキー」という生物の名前であろう、と思ったものである。もう四十年も前のことなんだなあ・・・。
それにしてもこの四川の僧侶は、郷里に行っても貧乏で何も用意できなかったのかも知れません。しかしいずれにせよ、紙の服や新聞紙をまとって寒さを防ぐのは男らしいことである。おいらもそう教わって生きてきた。曹洞禅はおとこの宗教らしいぜ。