平成28年11月21日(月)  目次へ  前回に戻る

なんか不思議な光が・・・「あれに乗っていけばいいところに行けるでぶう」「絶対ここよりはいいところでわん」

誰かがおいらが地上にいるとチクったのか、今日は会社から携帯電話に電話が入りました。もちろん、出ません。伝言機能も聞きません。はやいところ小エビ入りのかき揚げソバ食って地下に潜ってしまおう。

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でも、エビは地中で光りますから、見つかるカモ?

だいぶん前―――明の時代なんで500年ぐらい前のことなんですが、

予一夕見、地中有如燭煤者数十。

予、一夕、地中に燭煤するが如きもの数十有るを見る。

わたしは、ある晩、地中から、灯火が燃えるような光が数十本も上がっているのを見たことがあった。

「なんだなんだ?」

そこで

以火視之、乃日間所食海蝦殻也。異之、莫得其理。

火を以てこれを視るに、すなわち日間食うところの海蝦の殻なり。これを異とするもその理を得るなし。

ほんものの灯火を持って来てよくよく見たところ、なんと、昼間食ったエビの殻が光っていたのである。不思議なことだと思ったが、どうしてそうなるのか、考えてもわからなかった。

宋のころ、蘇東坡が浙江の金山寺に出かけたとき、やはり宵の口に

見江心炬火燭天。棲鳥皆驚。

江心に炬火の天を燭するを見る。棲鳥みな驚けり。

川の真ん中あたりに火がついて、空を照らし出したのを見た。(幻覚などではない証拠に)そのあたりの鳥たちもいちように騒ぎ出したのである。

そこで、

悵然帰卧心莫識、 悵然として帰りて臥すも心に識るなし、

非鬼非人竟何物。 鬼にあらず人にあらず、ついに何物ならん。

 うっとりとして帰って来て、布団に入ってみたが、どうもまったく腑に落ちない。

 精霊界のことでもあるまいし、人間界のものでもない。結局あれは何だったのだろう。

という詩を作ったそうなのである。

うーん。

後聞習海事者、鹹水夜動則有光影響。於前二事亦未深得也。

後に海事に習う者に聞くに、鹹水夜動けば光の影響有りと。前二事におけるにまたいまだ深く得ざるなり。

その後、海洋学に詳しい者に聞いたところでは、塩分濃度の高い水が夜流動すると、光が反射することがあるそうである。しかし、先の二つの事態について考えるに、これはぴったりした答えとは言い難い。

・・・と、ずっと悩んでいました。

ところが昨日、王子年「拾遺記」を読んでおりましたら、

南海之上、有浮玉山(即金山)。山下有穴、穴中有大水蕩、潏火不滅、乃陰火也。

南海のほとり、浮玉山(すなわち金山なり)有り。山下に穴有り、穴中に大水の蕩する有りて潏火(けつか)滅せず、すなわち陰火なり。

「潏」(けつ)は水の湧き出るさまをいう。

南の海のほとりに「浮き玉山」(あるいは黄金山)という山があるのじゃ。その山のふもとに洞穴があり、洞穴の中では大量の水が渦巻いているのだが、そこからは光が湧き出て消えることがない。これが「陰火」(熱くない火)である。

との記述があった。

なるほど。これが「陰火」というやつか。

もともと海水というのは光を出すものなのだ。蘇東坡もこのことを知らなかったんです。

始知東坡亦欠読書窮格。而蝦殻豈非海水之余気乎。

始めて東坡にもまた書を読むも窮め格(いた)るを欠くあるを知る。而して蝦殻あに海水の余気に非ざらんや。

蘇東坡ほどの知識人にも書物を読んで究極まで研究しきれないことがあるのだ、とはじめて知りました。そして、エビの殻が光を放っていたのは、海水の成分がまだ残っていたのだ、と考えざるを得ないでしょう。

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明・郎瑛「七修類稿」巻二十七より。

エビの殻は「科学的」にホントに光るのか? 「政治的」に正しいとかその程度ではないんですかな。

 

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