平成28年7月31日(日)  目次へ  前回に戻る

サルはニンゲンだ。ニンゲンかも。ニンゲン的。

土日は楽しかったなあ。ドウブツのように自由な心になっていました。しかし明日からはまた平日。またまたギスギスしたニンゲンに戻らざるを得ないんでもんき。

・・・・・・・・・・・・・

「弟子のみなちゃん、説教をいたちまちゅよー」

とコドモ師匠さまのお言葉です。

「わーい、説教だ、説教だ」

「きびちいやちゅかなあ」

「わーい、わーい」

と、今まであちこちで遊んでいたコドモ弟子たちがコドモ師匠の前に集まりました。

「おっほん。では今日は「礼」(≒「社会規範」)の大切さについて述べまちゅぞ」

つけひげをひねりながら、コドモ師匠が言いますことには―――

みなちゃんは「礼」を身に着けねばなりませんが、その際に気をつけねばならないことがあるよ。

礼聞取于人、不聞取人。礼聞来学、不聞往教。

礼は人に取らるを聞くも、人を取るを聞かず。礼は来たりて学ぶを聞くも往きて教うるを聞かず。

「礼」というのは、それを知っている人が学びに来たひとに学び取られることはあっても、教えるために人を連れてくることは無い。また、「礼」を学びに知っている人のもとに行くことはあっても、知っている人が学びたい人のところに行って教える、ということも無い。

ということで、「礼」はどこかから押し付けられるものだ、と思っていてはいけないので、こちらから積極的に、先進者から学び取りながら構築していかねばならないものなのでちゅなあ。

「礼」の効果について述べますと、

道徳仁義、非礼不成。

教訓正俗、非礼不備。

分争弁訟、非礼不決。

君臣上下、父子兄弟、非礼不定。

宦学事師、非礼不親。

班朝治軍、莅官行法、非礼威厳不行。

祷祠祭祀、供給鬼神、非礼不誠不荘。

なんでちゅ。

まとめて読み下し、現代語訳をつけまちゅね。

道徳仁義は礼に非ざれば成らず。教訓正俗は礼に非ざれば備わらず。分争弁訟は礼に非ざれば決せず。君臣上下、父子兄弟、礼に非ざれば定まらず。宦学事師、礼に非ざれば親しまず。班朝治軍し官に莅(のぞ)み法を行うに、礼に非ざれば威厳行われず。祷祠祭祀し鬼神に供給するに、礼に非ざれば誠ならず荘ならず。

道徳も仁義も、「礼」によってはじめて成立する。

教え訓練し風俗を正すことも、「礼」によってはじめて整備できる。

分かれて争い、口論して訴えあうときに、「礼」によってはじめて裁決できる。

君と臣の規律、親・子、兄・弟の関係も、「礼」によってはじめて確定する。

お役所や学校や師匠と弟子の関係も、「礼」によってはじめてわかりあえる。

朝廷の序列、軍隊の規律、役人を指導し法を執行するのも、すべて「礼」によってはじめて威厳をもって実行できる。

神に祈り先祖を祭り、精霊や亡霊にいろんなものをお供えするのも、すべて「礼」によってはじめて誠実さや荘厳さをもって実施できる。

のでありまちゅ。

だから、立派な君子はうやうやしく敬しみぶかく、節を守って自らを抑え、譲り合い退きあって、「礼」に則っとっていることを明確にするんでちゅよ。

いいでちゅかー。あのかわいいオウムちゃん。

鸚鵡能言、不離飛鳥、猩猩能言、不離禽獣。

鸚鵡はよく言えども、飛鳥を離れず、猩々もよく言えども、禽獣を離れず。

オウムちゃんはニンゲンのコトバを上手に覚えますが、けれど飛ぶ鳥の仲間から離れ(てニンゲンとな)ることはできない。

オランウータンちゃんはニンゲンのコトバをほぼカンペキに操ります(と言われます)が、けれどドウブツの仲間から離れ(てニンゲンとな)ることはできない。

という名言がありまちゅね。(なお、コドモにわかりやすいように「猩々」をオランウータンと訳した。参照→○猩々嗜酒・

今人而無禮、雖能言、不亦禽獣之心乎。

今、人にして礼無ければ、よく言うといえども、また禽獣の心ならんか。

もしここに、ニンゲンでありながら「礼」を守らないひとがいたら、たとえニンゲンのコトバをしゃべるとしても、その人はドウブツの心を持っている人だといわれることでしょう。

ということでーちゅ。みなちゃん、「礼」を大事にちてね。

「わかりまちたー」

「今日も勉強になってうれちいなあ」

「わーい、わーい」

ということで、起立も礼もしないうちに、今日の説教はおちまい。

・・・・・・・・・・・・・

「礼記」巻一「曲礼上」より。

最近、禽獣の心のひとが仕出かす事件が多いように思われ、

「怪しからん!」

と言うひともいるように思いますが、「社会規範」(≒「礼」)が崩壊している中では、「礼を守って人間らしくあれ」と言われてもどうすることもできません。なんとか新たな「社会規範」を築かねばならない・・・ように思います。

 

次へ