一汁三菜? おいらはキュウリだけで十分でキュウ。
最近のやらかしの数々を思い出して、ウツウツな日であった。おいらはどうやら給料がもらえるような能力ではない、のである。
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三国の魏の時代のことでございますが、淮南・寿春の胡質は清廉を以て聞こえたひとで、荊州の刺史に任命されていた。
その子の胡威が都の許昌からおやじのところにあいさつに行くことにしたが、
無車馬僮僕、自駆驢単行。
車馬・僮僕無く、自ら驢を駆りて単行す。
車も馬も下男も奴もいないので、自分ひとりでロバに乗って行ったのであった。
到着し、
見父而帰、父賜絹一匹。
父に見(あ)いて帰るに、父、絹一匹を賜う。
おやじと会えたのでもう帰ることになった。おやじは絹を一疋(20m強)、みやげにくれた。
絹をもらって、胡威はおやじに訊ねた。
大人清高、何得此絹。
大人清高なるに、何ぞこの絹を得しや。
「父上は清廉で高尚なひとだと信じておるのですが、その父上がどこからこの絹を手にお入れになったんですか?」
親父は答えていう、
是吾俸禄之余。
これ、吾が俸禄の余なり。
「これはわしの正当な給料の中から、へそくったものじゃ」
決してよこしまな形で得たものではない、というのである。
「わかりました」
威受之辞帰、卒取与質帳下都督。
威、これを受けて辞帰するに、ついに取りて質の帳下の都督に与う。
胡威はこの絹をありがたくいただき、いよいよ出発するに当たって、おやじの胡質の部下の士官に与えてしまった。
「これはおやじの荊州刺史としての給料の一部だということだから、本来は荊州のひとたちの財産となるべきものだと思うのだ」
と言うことであった。
後、晋の時代に、胡威も清廉の評判の高い役人となり、徐州刺史に任ぜられたが、その政治はたいへんうまく整い、人民たちを道徳的にも善導したのであった。
朝廷に政務の報告にあがったとき、
武帝、謂曰、卿孰与父清。
武帝、謂いて曰く、「卿と父といずれか清なる」。
武帝(在位265〜290)が
「あなたとお父上は、どちらも清廉の評判が高いが、どちらがより清らかだと思うかね?」
とお訊ねになった。
胡威、少し考えて、答えていう、
臣父清恐人知。臣清恐人不知。是臣不及遠也。
臣が父の清は人の知るを恐る。臣が清は人の知らざらんことを恐る。これ、臣の及ばざること遠いかな。
「わたくしめの父は、清廉であることを他人に知られないようにしておりました。ところがわたくしめは、つらつら考えるに、清廉であることを他人に知られたい、と願っているように思います。どうもわたくしめは父に、はるかに及ばないように思います」
と。
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「蒙求」巻上「胡威推縑」(胡威、縑(絹)(の出どころ)を推す)というお話でございました。もと「晋書」の列伝に出る。
こんな立派なひとでも清廉に生きておられたのです。おいらみたいな器量の狭いのが給料もらっているのはもう許されないように思われます。滅茶苦茶にカミナリが落ちてくる前に、そろそろ退くのが常道にございましょうぞ。