平成27年10月29日(木)  目次へ  前回に戻る

秋とともに散りゆくのだろう。おいらは。

コドモなのでコドモ会社に行っていますが、ツラいです。コドモ仕事でさえも。

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明の臨川先生・湯顕祖(字・若士)といえば何世代もの恋に恋する婦女子たちを夢中にさせてきた戯曲「牡丹亭」をはじめ「臨川四夢」といわれる伝奇ロマン劇の作者として名高いですが、一方で科挙試験にパスした進士さまで、有能かつ公正な地方官としても当時評判であった立派なひとだったんですな。要するにオトナ仕事をちゃんとこなしていたわけだ。

陳眉公の言(「全集」巻五十一「牡丹亭記」(「牡丹亭について」))によれば、あるとき、宰相の張新建が湯顕祖に言うたことがあった。

以君之弁才、握麈而登皋比、何詎出濂洛関閔下。

君の弁才を以て、麈(しゅ)を握りて皋比(こうひ)に登らば、何詎(なん)ぞ濂・洛・関・閔の下に出でん。

「麈」(しゅ)は「払子」。世俗を離れた生活をしているひとの必須グッズ。

「皋比」(こうひ)は「左伝」僖公十八年に出る語で、「虎皮」(こひ)のことで、転じてトラの皮を敷いたような立派な席、聴衆に向かって儒学の教えを講ずる講師の席、という意味に使われる。

「濂・洛・関・閔」は地名です。地名を使って、その土地に出現した人物を指す。「濂」は河南の濂渓のことで、宋学の創始者のひとり周濂渓が出た。「洛」は洛陽で、周濂渓の弟子でもある北宋の大儒、程明道・程伊川兄弟の出身地。「関」は陝西・関中のことで、程氏兄弟と同時に張横渠が出た。「閔」は福建。南宋の朱晦庵の出身地である。「濂・洛・関・閔」とは要するに「すばらしい大学者のみなさま」という意味なんです。

「湯くん、きみの判断力・表現力を使って、払子を手にして講師の席に登れば、その講義は北宋・南宋の大学者たちに負けることはあるまいと思われる」

而逗漏於碧簫紅牙隊間、将無為青青子衿所笑。

しかして碧簫・紅牙の隊間に逗漏し、まさに青青たる子衿の笑うところとなる無かれ。

「ところが(君は戯曲なんか書いて評判を取り、)みどりの笛を吹き、あかいくちびるで歌うやつら(←劇団員たちのこと)の間に長く暮らしていて、青い衿の服を着た書生どもに笑われようとしているんだぞ」

と。

湯顕祖は穏やかに頬笑みながら答えた。

某与吾師、終日共講学。而人不解也。師講性、某講情。

某、吾が師と終日ともに講学す。而して人は解かざるなり。師は性を講じ、某は情を講ずる、と。

「わたくしめと先生は、一日中、同じように学問を人に教えているのだと思っています。ほかのひとはなかなか理解してくれないのですが、先生は「人間とはどうあるべきか」を教えておられる。わたしめは「人間とはどういうものなのか」を教えているのだ、と思うのです」

「むむ・・・」

張公無以応。

張公、以て応ずる無し。

張さまは、答えることができなかった。

のだそうでちゅ。

張公は先輩で上司です。先輩で上司のいうことぐらい「あい、わかりまちたー!」と素直に聞くべきでしょう。そして一人になってから、

「でもやらない・・・いや、できないんでちゅけどね、おいらなんかには」

と独り言いうしかないのだ。

さて、萬暦四十三年(1615)、湯顕祖は科挙試験に合格したその子・開遠に与えた対聯には、

宝精神、則本業固。  精神を宝とせば、本業固からん。

謹財用、而高志全。  財用を謹しまば、高志全からん。

 こころを大切にせよ。そうすれば根本となる職業生活は確固たるものとなろう。

 かねは無駄遣いするな。そうすれば世俗にへつらわない高尚な志を無くさないですむだろう。

と言っております。基本的には常識人だったようなんでちゅな。

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明・湯顕祖「玉茗堂尺牘」巻六「与男開遠」むすこの開遠に宛てて)による。(なお本日の日録は「中華六十名家言行録」所収・八木澤元「湯顕祖」を参照した。)

こんなりっぱな人であれば、おいらがやっているようなコドモ仕事なんかちょちょいと「お茶の子サイサイとござる」とか言って片づけてしまうんでしょう。ニンゲン関係も得意なんだろうなあ。おいらもオトナになりたかったなあ。

 

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